45形

 前身は木造シングルルーフの14m車。半鋼製車100形の登場後であったが、ローカル線用にレベルを一段落とした車輛であった。45〜48の4両が登場したが、46は火災廃車となり、残る3両が昭和22年12月の新京成開業時(新津田沼〜薬園台間開業)から翌昭和23年にかけて順次新京成に移籍している。

 車体更新は昭和38年。更新工事は大栄車両にて施工され図1-1〜1-2の全金車体に生まれ変わったが旧台枠は種車のものをそのまま流用したために全長は約14Mと短いままであった。なお、更新時にほぼ同様のスタイルでダブルルーフだったモハ39形41を仲間に加えている(火災廃車で欠番であった46に改番)。車体は同時期に京成で更新された600形や220形をそのまま14m級に縮めた、模型にしたらなかなか似合いそうな好ましい外観となっている。ベンチレーターには製造費用の問題からか、京成での更新車とは異なりグローブ形ベンチレーターが採用されている。このグロベンは後の126・300・250・1100形などの新京成更新車の外観上の大きな特徴となった。また更新時に1C6Mの主制御器を新調。Mc-Mcの2両固定編成化された。

 車体更新後は基本的にはMc-Mc-Mc-Mcの同系列同士の4両編成を組んでいたが、性能的には木造車時代のままで、主電動機出力が55kwと低く路面電車並みの低速車のため、次第にスジに乗れなくなり、また車体が小さすぎて乗客の増加に対応できず、昭和50年以降休車。昭和52〜53年にかけて全車廃車・解体された。
1−1 46・48
1−2 45・47
300形

 昭和13年に登場した300形は、木造車33形・39形の鋼体化改造車である。登場時のスタイルは200形の流れを組んだ戦前の京成スタイルをしていたが、木造車の旧台枠を流用していたため、全長は14m、窓配置1D7D4(反対側4D7D1)と200形に較べ若干寸足らずの二扉車となっていた。京成時代に金町線などの支線区で使用されたあと昭和30年の新京成薬園台〜松戸開業時に8両全車が新京成に移籍した。
 車体更新は昭和41年。300形はもともと木造車の鋼体化車として誕生しているためこれが二度目の車体更新ということになる。更新後の車体は窓配置dD4D4Dの14m級全金車でグローブ式ベンチレーター付き、1C6Mの2両ユニット車と45形とほぼ同様だが、前照灯が埋め込み式になったり、アンチクライマー形状が変化したり、運転台高さが100mm上がったりと前面形状に若干の変化が見られる(図2-1〜2-2)。特筆すべきはモハ307で、この1両のみ試験的にアルミ車体で登場している。但し残念ながら車体は鋼製車同様に塗装されているため、外観からはそれと区別できない。

 折角車体更新されたものの、14mの小型車体が仇となり、その活躍期間は45形同様僅かな間に過ぎなかった。輸送量の急増する昭和50年以降300形の出番はなくなり昭和53年に全車廃車となった。45形・300形ともまだ車体は新しく、その小さい車体を逆に生かしてローカル私鉄への再就職はいくらでも可能であったと思われるが、軌間が標準軌だったためか、1C6Mの特殊な制御機構が災いしたのか、それとも新京成自身が車輛譲渡に積極的でなかったためか、譲渡は実現せず、そのまま全車解体されてしまった。
2−1 302・304・306・308
2−2 301・303・305・307
126形

 126形は昭和3年に100形の制御車として10両が登場した16m車である。製造所はこの頃の京成電車の製造を一手に引き受けていた雨宮製作所製である。スタイルは前面5枚窓で更新前の100形とほぼ同じ。ただ屋根が鋼製になり、車体長が100形に較べ150mm長くなり、台車に雨宮製のA-1台車を履いているなど100形と若干異なる点もある。
 昭和11年に126〜135の10両全車が電装、その後131〜135は昭和16年に電装解除されモハ・クハ5両づつの陣容となった。戦災で131・134・135の3両を失い、残り7両が昭和34年〜35年にかけて新京成に移籍している。
 
 車体更新工事は昭和38〜40年にかけて大栄車輛で施工。この更新で全金製車体に生まれ変わった。新製車体は同時期の京成での更新車220形に類似したものとなったが、車体長が220形などに比べて1m短いため、窓配置はdD4D4D2と運転台次位の客用窓がなくなっているのが外観上の大きな特徴である。この車体更新時にクハ133を131に改番したため126形はモハ126〜130・クハ131・132とモハ5両クハ2両がきれいに連番で並ぶことになった。

 昭和50年には老朽化した雨宮A-1形台車を廃車発生品であるD-16に履き替えている。図3-1〜3-4はこの頃の姿をモデルにしたものである。クハ2両は昭和56〜57年と比較的早く廃車されたが、モハ5両は客用扉のステンレス化、一部車輛は前面の非貫通化とステンレス製の飾り帯の取り付け、パンタグラフ撤去など、他形式と同様の改造を受け、最終的には1100形や220形などと最大8両編成を組んで活躍を続けた(図3-5、3-6)。最後の2両(モハ126・129)が廃車となったのは昭和61年である。
3−1 126・128・130
3−2 127・129
3−3 131
3−4 132
3−5 126・128・130
3−6 127・129
250形(新造)
 
 昭和45年東急車輌製の250形は、新京成最初の自社発注車である。車体長は在来車と同じ17m車だが、Mc(モハ252)-T(サハ551)-T(サハ552)-Mc(モハ252)と新京成では初の4両固定編成で登場し、Mc車は250形、T車は550形を名乗った。外観上の最大の特徴は客用扉が従来の1100mmから100mm拡大した1200mmとなったことで、その関係で窓配置は先頭車についてはdD4D4D2と運転台次位の窓がなくなっている(偶然にも更新後の126形と同じ窓配置だが126形とは車体長が異なる)。またMc-T間は貫通路幅は1100mmの永久連結とし、新京成車では初めて交流MGや新形CPを新調し、これらはT車に搭載して機器分散を行うなど、翌年に登場する新京成初の新性能車800形の基礎を築いた車輛である。ただ、この250形は新製車とはいうものの台車・主電動機や電装品の一部に京成210形の車体更新・新性能化で不要になった部品を流用しており、駆動方式も在来車と同じ釣掛式のままなので、残念ながら完全な新車ではない。

 250形(新造)は新京成旧型車中のエースとして他形式を2両連結した6両、最終的には200形と8両編成を組み、北総開発鉄道乗り入れ運用にも入るなど、200形・500形とともに旧型車では最後まで残った形式となった。
4−1 252
4−2 551
4−3 552
4−4 251
250形(更新)

 250形(更新)は250形(新造)の続番を付番されていて、同じ250形を名乗ってこそいるが、その生まれは全く異なっている。250形(更新)の前歴は昭和16年に梅鉢車両で製造されたクハ1500形1501〜1504に遡ることができる。1500形は戦前の京成スタイルを受け継ぐ17m車だったが、二扉車で戦前の京成では唯一のクロスシート車であった。

 戦中、一時ロングシート化されたものの、戦後昭和27年になって奇数車を電装、クロスシートを復活。モハ1501−クハ1502については成田山新勝寺にちなんだ「開運号」と名付けられ特急車専用車として整備され活躍を始めた。この頃の1500形は半室運転台車のため、最前部にもクロスシートが配置されており、この最前部からの眺望はなかなか好評だったようだ。しかしこの活躍も長く続かない。翌昭和28年には新製特急専用車1600形が登場し、開運号の運用は1600形に奪われ1500形は特急予備車的な扱いとなってしまう。更に昭和38年3150形のうち3191〜3194がセミクロスシート装備の特急専用車として登場すると1500形は特急運用から完全に撤退。三扉ロングシートの通勤車に改造されてしまった。1503・1504はクロスシートのまま新京成に貸し出されていた期間もあったようだが、新京成への正式な移籍は昭和42年。4両全車が譲渡された。

 京成時代の三扉化の際に半鋼製のままではあったがノーシルノーヘッダーのやや近代的な車体に改装されていたため、車体更新工事は比較的遅く昭和47年に大栄車輛で行われている。この時、何故か旧番号の1500形を名乗らず250形(新造)の続番モハ253・254・クハ553・554に改番されている。
 250形(新造)の続番を名乗るだけあって車体は250形(新造)とほぼ同じ。しかし、先頭車の将来の機器増設を見込んでTc-M-M-Tcの4両固定編成と250形(新造)とはM・T車の位置が逆転している。またMGやCPも種車のものを流用。側窓の大きさも250形(新造)とは異なるなど、細かい点で差異はかなりある。

 新京成旧型車はTc車が編成先頭に立つことは余りなかった。それは250形(更新)も同様で昭和50年代に入ると編成両端に100・126・220形や1100形を連結して250形(更新)は編成中間に封じ込めた形で6両を組むことが多かったようである。最終的にはクハ550形は運転台こそ残るものの運転台機器を撤去され編成の先頭に立つことはなくなり、モハ250形もパンタグラフを撤去されサハ然としてしまった。
5−1 554
5−2 253
5−3 254
5−4 553
1100形(新)

 新京成に在籍していた雑多な16〜17m級半鋼製車を車体更新の際にひとまとめにしたものが1100形(新)で、その種車は1100形(旧)のほか、20形・500形・2000形と多岐にわたっている。それぞれのグループについて簡単に前歴を解説しよう。

◆1…1100形(旧)(モハ1101〜1106→モハ1101〜1104・サハ1106・1107)
 昭和16年梅鉢車両製の制御車で、1101〜1106の6両が登場した。登場当初は制御車であったが、同じ年に126形の電装解除で発生した電動機などを用いて全車電動車化されている。車体外観は200形などと同じく非対象窓配置を持つ典型的な戦前の京成スタイルをしていた。
 新京成移籍は昭和36〜37年。新京成で初めての17m車であり、移籍後はエースとして活躍した。車体更新は昭和44〜45年。

◆2…20形(モハ27・クハ20・22・29→モハ1105・サハ1108〜1110)
 大正10年の千葉線開業に備えて登場した16m級木造車。明かり窓のついた当時としてはモダンな風貌。電動機出力75kwの総括制御式でモハ20〜31の計12両が登場している。このうちモハ27は昭和6年に火災を起こし車体を焼失したため、200形と同様の17m級鋼製車体を新製して復旧した。残りの11両は電装解除されクハとして使用されたが、戦後、更新後の100形に似た非対称窓配置の車体を新製して鋼体化された20・22・29を残して廃車となった。
 鋼製車体に生まれ変わったモハ27・クハ20・22・29の4両は昭和36〜37年に1100形ともども新京成に移籍している。車体更新は昭和46年。クハ20・22・29は16m車だったが、更新時に台枠を延長して他車に揃えて17m車とした。

◆3…2000形(クハ2017・2018→サハ1111・1112)
 戦災復旧車2000形のうちラスト2両、クハ2017・2018は大栄車輛にて車体新製して登場した。そのため他の2000形が昭和32〜36年にかけて全金車体に更新される中で、更新対象より外れ、半鋼製車体のまま昭和39年に新京成入りしている。昭和46年に車体更新され1100形の一員となった。

◆4…500形(クハ503〜505・508→サハ1113〜1116)
 500形は200形の制御車版として昭和9年にクハ500〜509の10両が登場した。200形とともに左右非対称の窓配置を持つ戦前の京成を代表する車輛の一つである。
 昭和34年の京成電鉄改軌時(1372mm→1435mm)にモハ500〜502の3両はFS28形台車を新造して電動車化され、後に全金車体に更新された(500形の項参照)。また戦災を受けロクサン電車風の切妻車体となり、後に荷電化されたクハ507は、新京成に移籍することなく廃車となった。残った6両(クハ503〜506・508・509)は昭和38・41年に新京成に移籍。このうちの4両が昭和47年に車体更新され1100形の仲間入りしている。なお半更新対象から外れ半鋼製のまま残ったクハ506・509は昭和51年に廃車となっている。

1100形旧車番対応表
旧車番 製造年 更新後車番 車体更新 備考
モハ1101 昭16.1 モハ1101 昭45.12
モハ1102 昭16.1 モハ1102 昭45.8
モハ1103 昭16.1 モハ1103 昭44.12
モハ1104 昭16.1 モハ1104 昭45.6
モハ27 大10.8 モハ1105 昭46.8 ※旧木造車。旧車体昭和6年火災焼失。鋼製車体で復旧。
モハ1106 昭16.1 サハ1106 昭44.9
モハ1105 昭16.1 サハ1107 昭45.9
クハ20 大10.8 サハ1108 昭46.6 ※旧木造車。戦後鋼体化。
クハ22 大10.8 サハ1109 昭46.3 ※旧木造車。戦後鋼体化。
クハ29 大10.8 サハ1110 昭46.2 ※旧木造車。戦後鋼体化。
クハ2017 昭27.3 サハ1111 昭46.10 ※戦災復旧車。車体新製にて復旧。
クハ2018 昭27.5 サハ1112 昭46.12 ※戦災復旧車。車体新製にて復旧。
クハ503 昭9.1 サハ1113 昭47.2
クハ504 昭9.1 サハ1114 昭47.5
クハ505 昭9.1 サハ1115 昭47.3
クハ508 昭9.1 サハ1116 昭47.6

 昭和44〜47年にモハ1100(旧)・モハ20・クハ20・クハ500・クハ2000の車体更新で登場した1100形(新)はその登場時期によりモハ1101〜1105及びサハ1106〜サハ1110とサハ1111〜1116の2タイプに大別することができる。

◆1100形(一次車)モハ1101〜1106/サハ1106〜1110
 昭和44〜46年に1100形・20形の更新車としてモハ6両・サハ4両が登場。同時期の京成更新車モハ200形や500形と似ているが、屋根上には新京成ブランドでの更新の象徴であるグロベンが載り、また窓の中桟の位置が異なるので区別することができる(図5-1〜5-4)。後に他車と同様、側扉のステンレス化や前面の非貫通化が行われ図5-6〜5-9のような姿となった。また編成の長大化とともに編成中間に組み込まれた一部先頭車についてはパンタグラフや運転台機器の撤去が行われ図5-5のような姿となった。
 1100形一次車は1100形のみの整った編成を組んだほか、100形・220形・500形・600形など各形式の付随車としても幅広く活躍した。

◆1100形(二次車)サハ1111〜1116
 昭和46・47年に2000形・500形の更新車として登場したサハ1111〜1116の6両については客用扉が250形と同様1200mmに拡大された。その関係で窓まわりの構造やドアの開く方向が一次車と異なっている(図5-10,5-11)。
 1100形二次車は主に100形・126形の付随車として使われ、100形編成の中間に組み込まれて活躍した。
5−1 1101・1103・1105
5−2 1102・1104
5−3 1106・1108・1110
5−4 1107・1109
5−5 1101・1103
5−6 1105
5−7 1102・1104
5−8 1106・1108・1110
5−9 1107・1109
5−10 1112・1114・1116
5−11 1111・1113・1115
主な編成例
◆45形
46F(昭和42年)【モハ46-モハ45+モハ48-モハ47】
※写真などを見ると、45形は常に4両一組で使われていたようである。

◆300形
308F(昭和50年)【モハ308-モハ307+モハ304-モハ303+モハ306-モハ305】
※休車直前の末期の編成。

◆250(新造)形
220F(昭和51年)【モハ220+モハ123+モハ252-サハ551-サハ552-モハ251】
※昭和50年代初頭の代表的な編成例。半鋼製車も入った凸凹編成が多かった。
252F(昭和58年)【モハ252-サハ551-サハ552-モハ251+モハ505-モハ503】
※昭和53年以降は津田沼寄りに500形を2両連結した6両固定編成となった。
252F(昭和60年)【モハ252-サハ551-サハ552-モハ251+モハ200-サハ2013-モハ202-モハ201】
※最終的には200形と8両編成を組んだ。

◆250(更新)形
554F(昭和51年)【クハ554-モハ253-モハ254-クハ553+モハ118+モハ1105】
※このころまではたまに編成先頭に立っていた。
220F(昭和53年)【モハ220+クハ554-モハ253-モハ254-クハ553+モハ1105】
※昭和53年以降、ほとんどの場合250形(更新)は上記のように編成両端に220形や1100形を繋げており、自身は先頭に立つことはなかった。
1102F(昭和61年)【モハ1102-サハ1113+クハ554-モハ253-モハ254-クハ554+モハ106-モハ113】
※廃車直前の8両固定編成。

◆1100形
1102F(昭和60年)【モハ1102-サハ1110-モハ109-モハ1103+モハ220-サハ1107-サハ1108-モハ129】
※1100形8連。編成中に100・126・220形も入った凸凹編成は新京成らしい魅力に溢れている。
1104F(昭和61年)【モハ1104-サハ1107-モハ1101+モハ1103+サハ1108-モハ1105】
※新京成最後の釣掛6両編成。1100形のみの整った編成である。