新京成展示室(その1)

100形
 
 京成初の半鋼製車。大正15年(1926年)の京成電軌成田開業時に一挙に25両が登場した。車体長約16mの雨宮製作所製の三扉車で、前面は当時流行した五枚窓の特徴あるスタイルであった。一部戦災の被害を受けた車輛もあったが、幸いにして廃車を出すことなく昭和28年より京成系の子会社大栄車輛にて全車車体更新を受けて近代的なスタイルに生まれ変わった。その後昭和38年から42年にかけて25両全車が新京成に移籍。新京成電鉄の主力として最終的には8両編成を組んで活躍、昭和62年に最後の6両が廃車になるまで実に60年以上に渡って第一線で走り続けた京成史に残る名車の一つである。

 100形は京成時代の昭和28年〜37年までの長期間にわたって車体更新工事を受けたために、更新の施工時期によって各車まちまちのスタイルで趣味的に非常に面白い系列となっている。まずは新京成移籍後の昭和48年から開始された車体特修工事直前の姿をご覧いただこう。
初期更新車

 100形のトップを切って更新された104号(図1-1)はウインドシル・ヘッダー付きの古くさい半鋼製車体で登場。一番の特徴は窓配置でイラスト側dD4D4D2d、イラストと反対側はd2D4D4Ddと左右非対称の形態となっている。そのため車内に入ると向かい側にロングシートが眼に入るという奇妙な車輛だった。この非対称窓配置は200形以降の戦前製京成車に伝統的に採用されていたが(ドア付近の混雑を緩和することが目的だったらしい)、100形更新車がこの特徴的な窓配置を採用した最後の形式となった。

 104号に続いて登場した101号(図1-2)はノーシルノーヘッダーの幾分近代的な姿となった。118号・123号(図1-3)(図1-4)は正面窓にHゴムを採用している。ここまで4両が半鋼製車輛である。
1−1 モハ104
1−2 モハ101
1−3 モハ118
1−4 モハ123
中期更新車
 
 続いて登場した102・103・112・117・121・122号以降は全金属車体が採用された(図1-5、1-6)。但し、全金車とはいうものの、雨樋の位置は半鋼製車輛と同じで低いまま、窓枠も木製のままで、戦前の京成スタイルの面影を引きずった野暮ったいスタイルであった。窓枠については新京成入線後、順次アルミサッシに改造されている。
1−5 モハ102・112・122
1−6 モハ103・117・121
後期更新車

 最後に登場した15両は、同時期に車体更新された2000形と同様、側面通風器を採用した。登場時は図1-7、1-8の如く窓枠のみ木製であったが、新京成入線後モハ105・106を除きアルミサッシ化された(図1ー9、1-10)
1−7 モハ105
1−8 モハ106
1−9 モハ108・110・114・116・120・124
1−10 モハ107・109・111・113・115・119・125
車体特修後

 昭和46年より新京成初の新性能車800形が登場。京成からも220形・600形をはじめとする17m級車体を持つ中型車が続々と移籍。100形は本来はこれらと交代して廃車の運命を辿るはずであった。しかしながら昭和40年代後半から新京成の沿線人口は急激に増加し、輸送量は右肩上がり、電車の連結両数も沿線人口の増加に比例して4両から5両、そして6両と次第に長くなっていった。しかし、中私鉄の悲しさか、はたまたオイルショックの影響か、新造車800形の増備は年間6〜8両程度と遅々として進まない。こうした状況下で100形に特別修繕を施して延命使用することとなった。

 100形の特修は昭和48年〜53年にかけて施工。更新対象は当初4両のみだったが、その後計画が変更され約半数、最終的には初期に更新された半鋼製車4両(104・101・118・123)を除く21両に施工されることになった。この特修により102・103・105・106・109・117・122の7両は運転台を完全に撤去して切妻の中間電動車に、残りの車輛も奇数車は松戸側、偶数車は津田沼側の運転台を撤去した片運転台車となった。全車側面ドアのステンレス化改造、運転台付き車輛については、運転台の全室化、前面にまわっていた雨樋を撤去が行われ他車に較べて遜色ない近代的な車輛に生まれ変わった。なお特修の行われなかった半鋼製車4両は昭和53年に100形のトップを切って廃車となっている。

 車体改修後も前照灯のシールドビーム二灯化、固定編成化に伴う一部車輛のパンタグラフや前面貫通幌の撤去等の小改造が行われている。下図はその最終期の姿である。
中期更新車特修後
 
 中期更新車6両は特修後は先頭車2両、中間電動車4両に生まれ変わっている(図1-11〜1-14)。雨樋は車体正面については撤去されたが、側樋は低い位置のままである。
1−11 モハ112
1−12 モハ121
1−13 モハ102・122
1−14 モハ103・117
後期更新車特修後
 後期更新車15両は特修後は先頭車12両、中間電動車3両の陣容となった(図1-15〜図1-20)。後期更新車の側面には従来上樋、下樋と上下二段の雨樋がついていたが特修により下樋が撤去されている。但し、107・108(図1-17・1-18)の2両は上樋の腐食が激しいために、上樋を撤去し下樋が残る異端車となっていた。
1−15 モハ110・114・116・120・124
1−16 モハ111・113・115・119・125
1−17 モハ108
1−18 モハ107
1−19     モハ106
1−20     モハ105・109
100形編成例

 6連時代は100形(偶数車)+サハ(主に1100形1111〜1116または2000形)+100形(奇数車)という3両編成を2本繋げたMc-T-Mc+Mc-T-Mcの6両編成が一般的だったようだ。後に中間電動車化された100形を3両目と5両目に組み込み6M2Tの8両化されている。100形の中間に入っていたサハ1100形・2000形は100形に較べて車体長、車体幅ともに一回り大きく新京成名物の凸凹編成が楽しめた。

 半鋼製車4両は昭和53年に廃車になるまで両運転台を維持していたため、主に250形・500形・600形など他形式の増結用に使われていたようで、こちらも新旧電車の凸凹編成となっていた。。


主な編成例

106F(昭和50年)【モハ106−サハ2006−モハ105+モハ104−クハ132−モハ103】
※半鋼製車輛も組み込んだ特修前の100形編成。

116F(昭和49年)【モハ116−サハ2015−モハ115+モハ110−サハ2013−モハ119】
※100形特修車の第一陣。

116F(昭和60年)【モハ116−サハ1109−モハ103−モハ1101+モハ114+モハ102+サハ1116+モハ115】
※8両化後の100形編成の一例。

124F(昭和62年)【モハ124−サハ1111−モハ117−モハ105−モハ108−モハ122−サハ1112−モハ107】
※最後まで残った100形編成.。末期はこの編成のように6M2T化されていた。


新京成展示館(その2)へ