宮電八十年史

宮城電気鉄道の系譜
●秋保石材軌道(大3.12.23)
●大崎水電(大11.2.4) ●仙台軌道(大11.10.6) ●秋保石材電気軌道(大11.10.29)
●宮城県(大12.8.1)
●宮城電気軌道(大14.6.5) ●松島電車(大13.2.15) ●仙台鉄道(昭元.12.25) ●秋保電気軌道(大14.1.12)
宮城電気軌道に吸収(昭14.5.10)
●宮城鉄道(昭19.5.1) 宮城電気軌道と統合(昭19.5.1) ●秋保電気鉄道(昭19.11.18)
宮城鉄道が買収(昭29.7.1)
●宮城電気鉄道(昭35.4.1)

1.宮城電気軌道の時代(大正14年〜昭和19年)
歴史編 解説編

●1-1 軌道として開業

 宮城電気鉄道の歴史はその前身である宮城電気軌道(以下宮軌)が大正10年(1921年)に仙台〜松島間の事業認可を鉄道省に申請、大正12年(1923年)から工事が始まり関東大震災の影響で工事が若干遅れたものの2年後の大正14年(1925年)に最初の開業区間、仙台〜西塩釜間14.7kmを開通させた事がはじまりである。
 全長18mの電車が最大6両で行き交う現在の宮電宮城線の姿からは想像出来ないことだが、宮城電気軌道という創業時の社名からも分かるように開業時には法規上は軌道(路面電車)であった。というのも宮軌の設立当初、仙台〜塩釜港間には既に官設の塩釜線が存在しており(明治20年開業)、宮軌のルートの大部分はこの既設線と平行路線となってしまうため、鉄道法準拠では路線免許がおりない可能性があったのだ。このため宮軌は敢えて鉄道法ではなく軌道法準拠の路面電車として路線免許を得たのである。このように実質は郊外電車を指向しながらも路線の大部分が官設鉄道と平行路線だったため渋々軌道として開業したという例は珍しくない。関東では京浜急行の前身である大師電軌、関西では京阪や阪神、九州では九州電軌などがこうした例として挙げられる。宮軌は路線規格もこうした軌道系高速電車の先達に習い
架線電圧は600V、軌間は1435mmの標準軌を採用している。

●1-2 「アメリカさん」デテロハ100形


 
このように宮軌は建前上は軌道でも実質的には郊外電車であったから、路面電車らしい併用軌道区間は塩釜付近の一部に存在するだけで全線の9割以上は新設軌道で占められていた。開業時に備えて8両の電車を購入したが、この電車も軌道らしからぬ全長50フィート級(約15m)の大柄なアメリカ製電車(デテロハ100形)と、それよりはやや小さいものの、それでも軌道線としては大柄な全長14m級の蒲田車輛製の木造電車(デホハニ200形)だった。ウエスチングハウス社の自動総括制御装置を備えたこれらの電車は当時の地方私鉄の電車としては最高級の部類に属するものだったが、とくにアメリカ・プルマン社製の電車デテロハ100形はタッチの差で日本初の全鋼製の堅牢な電車で、ロサンゼルス周辺に大路線網を築き上げていたパシフィックエレクトリックの流れを組む前面丸窓の特異な外観もあいまって「アメリカさん」というニックネームで社員からも市民からも親しまれたという。

1-3 進取の気風に富む東北の雄

  ところで宮軌のご自慢は「アメリカさん」だけではなかった。起点である宮電仙台駅は日本初の地下駅だったのだ。宮軌開業当時まだ東京ですら地下鉄は開業していなかったので、地下駅は大変珍しいもので市民の中には電車に乗る用事もないのに地下駅見たさに駅に来るものもいたそうだ。もっとも地下区間は仙台からわずか200m強程の短い区間ではあったが、考えようによっては宮軌が日本初の地下鉄だったともいえなくもない。宮電自身はこの事実を広く世間にアピ−ルしたいようで、度重なる「宮電仙台」の拡張工事の結果、往事の面影は残ってはいないものの、開業当時の地下駅にあたる現在の1番線ホームの石巻方の端には「日本の地下鉄発祥の地」という石碑が控えめに建っている。
 その他にも専門的な話になるが、オール鉄柱架線柱とシンプルカテナリー架線の採用 、信号機を全て色灯化 、レールは37Kg/mが標準で一部は当時の省線より高規格の50Kg/mレールの採用と宮軌は当時の私鉄としては最高レベルの設備を持っていた。

●1-4 開業当初の苦境

 先進的な数々技術の導入とは裏腹に、宮軌の経営は決して楽なものではなかった。宮軌の大口出資者であった輸入業者の高田商会は、関東大震災後の不況のため開業を目前にして倒産してしまい、宮軌は開業当初から資金難に陥ってしまった。この資金難を象徴するのが仙台口の線形である。現在は地下化されてしまっているが、地上時代の宮電仙台〜陸前原ノ町間は半径127mの急カーブを初めとしてとにかくカーブが多いことで有名だったが、これは路線建設当初、資金難から建設費用を安くあげるために、少しでも地価の安いところを選んで線路用地を所得していった結果なのである。株式配当も開業以来10年間無配を続けたという。ただ宮軌経営陣の努力によって路線延長工事はなんとか続けられ、昭和2年(1927年)4月には当初の計画通り松島公園(現在の宮電松島)まで開通し当初の目標が達成された。
 更に石巻への延長運動が盛んになったのを受けて、第一次大戦後の不況下でありながら
昭和3年(1928年)11月22日に石巻(現在の宮電石巻)まで開通し、これをもって現在の仙石線の原型が完成を見たことになる。当時のダイヤを見てみると列車本数は宮電仙台〜宮電石巻間はおおむね30分ごとの38往復で、全線の所要時間は1時間40分。現在の普通列車と較べると幾分遅いようだが、塩釜付近に併用軌道が存在した事を考えると健闘しているといえるだろう。

●1-5 名車800形の登場

 全線開業後の宮軌は、経営も好転し松島・野蒜(現奥松島)への観光の足として多くの乗客を運ぶようになった。昭和12年(1937年)には、それまで「アメリカさん」以外は無骨なスタイルのあか抜けない電車ばかりだった宮軌に戦前の地方私鉄の名車として広く知られているモハ800形が登場。松島への観光急行専用車として登場したこの電車は細面で窓の大きな好ましいスタイルの2扉セミクロスシート車で、
車内ではガイド嬢による観光案内・紅茶サービスなどが行われ松島を訪れる新しい足となった。このモハ800は、数々の改造を受けながらつい最近まで生き延びていたので覚えている読者も多いことだろう。新車登場の他にも、塩釜付近の併用軌道は路線の付け替えで専用軌道化され電車がスピードアップされるなど明るい話題が多く、この頃が宮軌のいわゆる黄金期だった。
 昭和14年(1939年)には倒産した松島電車(宮軌の松島公園から省線の松島駅までを結んでいた路面電車)の施設を譲受して、運行再開を目論んだようだがこれは果たせず旧松島電車のレールは不急不要路線として昭和19年(1944年)に撤去されてしまった。

●1-6 太平洋戦争下の宮軌

 昭和16年(1941年)、太平洋戦争が始まると、沿線の苦竹、多賀城に軍需工場が造られ、矢本に海軍飛行隊が進出した。また榴ヶ岡には陸軍の連隊があり宮軌はこれらの施設で働く人々と物資を輸送する使命が課せられるようになった。昭和18年(1943年)には輸送力増強の必要性から仙台〜陸前原ノ町間(地下区間を除く)が複線化されている。そんな中、全国の私鉄線 の中で、特に軍事・産業の分野に重要な関わりを持った路線を全て国有化し、戦争の遂行に有利なものとしようとする動きが出てきた。
 重要な軍事施設を結んでいた宮軌も何度か戦時買収の俎上には上がったものの、仙台から塩釜までは省線の東北本線が内陸部にほぼ平行して走っており、石巻には石巻線が通じていたため、買収しなくても輸送ルートは確保できること、また宮軌が標準軌を採用していたため、これを省線規格の狭軌に改軌するには莫大な費用がかかることなどの理由から買収は見送りとなった。買収は見送りになったものの、買収の一歩手前までいったことは事実であり、経営陣の頑強な抵抗がなければ、他の多くの私鉄と同様、国に買収されていたかもしれない。歴史にイフは禁物であるがもし宮軌が国に買収されて国鉄仙石線などとなっていたら、現在どうなっているのだろうか?そんな架空史を想像するのも楽しいかもしれない。

●1-7 仙台鉄道との戦時統合


 何はともあれ買収の危機を切り抜けた宮軌だったが、虎の子の急行車モハ800形はロングシート化され、松島への急行運用は廃止。乗務員から「アメリカさん」と親しみを込めて呼ばれていた100形電車も、電車に敵国の名前がついているのはいかがなものかという世間の風潮から、いつしか100形と単に形式名で呼ばれるようになるなど、戦争は宮軌にも確実に暗い影を落としていた。
 昭和19年(1944年)5月、宮軌はこの時代の象徴ともいえる戦時統合の洗礼を受け生まれも育ちも違う鉄道と合併することになる。その結婚相手こそ、現在の
宮城電鉄仙台線の前身である仙台鉄道だった。
 戦時統合によって
旧宮城電気鉄道の路線は宮城鉄道宮城線、仙台鉄道の路線は宮城鉄道仙台線と旧社名を踏襲したものとなった。
 
●1-1 宮城電気軌道
 
 どのような設定とすれば宮城電気鉄道が買収を逃れることができるかが、架空宮電史における重要なテーマですが、思い切って標準軌(軌間1435mm)・軌道法・架線電圧直流600V(軌道法では架線電圧は750V以下しか認められない)という基本設定に変更して「宮城電気軌道」という社名にして開業したという事にしてみました。ちなみに史実では宮電は軌間1067mmの狭軌、架線電圧1500V、省線塩釜線との平行路線であるにもかかわらず、何の支障もなく鉄道法準拠にて開業しています。
 軌道法準拠にしたのは、宮電をなんとしても標準軌にしたかったからです(確か当時鉄道法では標準軌は認められていなかったはず)。もともと宮電は買収国電路線の中では買収理由がもっとも不明瞭な路線ということもあり、史実そのままの設定を使って、国策買収対象路線からは何故か外れてそのまま私鉄として生き残ったという設定にしても何ら不自然ではないと思いますが、それでは史実をほぼなぞるだけになってしまい面白くないのでちょっと基本設定をいじって、国策買収を逃れたという理由づけをより強固にしてみました(標準軌の私鉄が買収された例はない)。
 軌道法準拠=標準軌という訳では必ずしもないのですが、阪急の前身である箕面有馬電鉄とか阪神・京阪など関西で標準軌を採用した鉄道が軒並み軌道法準拠で開業しているという実例にならっています。関東でいえば京急の前身大師電軌なんかもそうですね。これらの鉄道は官設鉄道と路線が平行するため鉄道法の免許がおりず、仕方なく軌道法準拠で建設したようで、軌道線といってもいわゆる路面電車とは異なり併用軌道区間は町中でどうしても用地が確保できないところに仕方なく存在する程度、実体は都市間の連絡を主な仕事とする高速電車でした。
 初期の宮軌のモデルとしたのは、これら初期の標準軌高速軌道です。

●1-2 開業時の車輛について

 史実では開業時の電車として蒲田車輛製のシングルルーフの木造車デホハ100形が3両、デホロハニ200形が2両、計5両の電車が用意されたようです。が、せっかく架空史を作っているのだから是非架空の電車も登場させてみたい。そう考えて作ったのがこのデテロハ100形というアメリカ製電車です。
 初期の都市間連絡電車はいずれもアメリカのインターアーバンと呼ばれた都市間連絡電車を範としているところが多くて、電車もアメリカンタイプと呼ばれたアメリカ風の頑丈で無骨な外見のステップ付きの路面電車としては大柄な、鉄道線用としてはちょっと小振りなが導入されているところが多いのですが、宮城電気軌道としても、せっかく標準軌・軌道法を採用したのだから、いかにもそれらしい電車がほしいということで、開業を前に技師がロサンゼルスのPE(パシフィックエレクトリック)の視察に行き、その際に技師がPEの電車を気に入ったという裏設定でアメリカ製の電車を輸入したという経緯にしています。電車の輸入は当時でもあまり類例がないですが、電気機関車の輸入例は多く、史実でも宮城電気鉄道は開業時にウエスチングハウス社製のキ1という電気機関車を導入しています。だから輸入電車の設定もちょっと無理があるかもしれませんが見逃して下さい。だってかっこいいんだもん。レッドカー…。

●1-3
●1-4

 このあたりは史実そのままなので何も言うことはありません。進取の気風に富んだ宮電のすごさをじっくりと味わって下さい・・・って筆者はちっとも分かっていないのですが50Kgレールってすごいのでしょうか?色灯式信号機って何でしょう?
(色灯式信号機というのは今の電灯式の信号機のことです。当時は国鉄の幹線クラスの路線でも腕木式信号機が一般的だったそうです…掲示板とーせん様の投稿より)

●1-5 800形について

 悲運の名車と言われた宮城電気鉄道モハ800形の登場です。小田急1600形をそのまま二扉にしたような窓の大きな軽快な電車は、戦前の地方私鉄車輛の白眉でしょう。史実では11両が増備されたところで国に買収(計画では24両の増備が予定されていたらしい)。買収後もほとんどの車輛は仙石線を離れることなく、その後入線した17m級旧形国電に交じって買収国電としては比較的遅くまで働きましたが、昭和30年代後半には廃車され、何故か地方私鉄に第二の職を得た電車は1両もありませんでした。
 こうした悲運の車輛に、違った車生を吹き込めるのが架空鉄道という遊びの醍醐味です。宮電架空史における800形の活躍振りについては別コンテンツ、仙石線車輛史をご覧下さい。

●1-6 国策買収

 大戦末期になると国家総動員法の名の下に国は戦争遂行に都合の良い路線を手当たり次第買収して国有化していきました。京浜臨海工業地帯を走っていた鶴見臨港鉄道(現JR東日本・鶴見線)や宇部の工業地帯を走っていた宇部電気鉄道(現JR西日本・宇部線)などが、その良い例だと思います。
 現実世界の宮電も沿線に多くの軍事施設や工場を抱えていたため、経営状態は良好だったにもかかわらず買収されてしまいました。ちなみに史実での仙石線の買収理由は「本鉄道は一部鉄道敷設法予定線に該当するばかりでなく近時沿線には多数の軍事施設及び重要工場の建設を見、その重要性を加えたのでこれを買収する」というものでした。

●1-7 戦時統合

 いよいよ、この辺りから史実というレールの上を大きくはみ出してきます。まずは昭和19年5月の仙台鉄道との合併です。史実ではちょうどこの時宮電は国有化されていますが、架空史上ではこのタイミングで仙台鉄道との戦時統合を行うことにしました。統合後の新社名は月並みですが「宮城鉄道」としています。ナローゲージの非電化路線である仙台鉄道も統合した訳ですから「電気鉄道」よりは「鉄道」のほうがいいと思いますんで…。
 なおここでは宮城電気軌道・仙台鉄道の2社のみの戦時統合としましたが、戦時統合を秋保電鉄・仙北鉄道・栗原鉄道の3社も含めて行ったほうがひょっとしたら自然なのかも。史実ではそれぞれ統合されることはありませんでしたが、宮城電気軌道という核になる存在があったとしたら、たとえ戦後すぐ分裂する結果になったとしても(栗原鉄道という特殊な性格の鉄道は特に)一時期は宮城県中の私鉄が一つになるというのもありえた話かもしれません。ただそれでは話があまりにも複雑になりますし、それを語れるだけの戦時統合や宮城県の鉄軌道会社に関する知識も資料もありませんので、ここではあえて戦時統合は宮城電軌、仙台鉄道の2社だけで行われた事にしています。この戦時統合の扱いについては今後も多くの方のご意見を参考にしていきたいところです。
2.宮城鉄道の時代(昭和19年〜35年)
歴史編 解説編
仙台鉄道小史
 仙台鉄道の歴史は宮城電気軌道よりも古く、仙台軌道軌間762mm軽便鉄道として大正11年(1922年)に仙台市内北部の通町から当時まだ七北田村だった八乙女までの6.8kmが開業したのがそもそもの始まり。仙台から陸羽街道(現在の国道4号線)沿いに中新田(現西古川)までを結ぶのが当初の計画で、路線は仙台方と中新田方の両方から徐々に延び、昭和3年(1928年)に当初の計画どおり通町〜中新田間44.1kmが全通している。

 全線開通時に仙台鉄道と改称したが、実質は軽便鉄道のままであり、以来沿線の人々の仙台への足として、また米など農作物や亜炭の輸送機関としてのんびりと走り続けていた。全線開業後は、昭和14年(1939年)に仙台方の起点を通町より0.3km短縮した北仙台に移して省線仙山線との連携を図った事以外には特に特筆すべきことはおこらぬまま昭和19年(1944年)の宮軌との統合の日を迎えた。

●2-1 敗戦前後の宮城鉄道

 戦時統合によって路線も社員も倍増。社名も改め新たなスタートをきった宮城鉄道(以下宮鉄)だが、戦局の悪化とともに資材不足が顕著になり、昭和20年(1945年)の終戦時には半数の電車が故障状態、やっと動く電車も窓にはガラスのかわりに板を張ったみすぼらしい状態であった。幸いにして宮城線も仙台線も戦災による被害は軽微だったが、施設・車輛ともに疲弊を極めており、宮城線については国鉄から老朽木造客車を借り受けて電気機関車に引っ張らせたり、仙台線については明治期に製造された産業用蒸気機関車をどこからか見つけてきて、客車代用の無蓋車に乗客を乗せたりして当座をしのぐありさまだった。

●2-2 宮城線の昇圧と仙台線の被災

 昭和22年(1947年)、宮城線では老朽化した開業時からの変電施設の更新をすることになりこれを機に
架線電圧を開業当初の600Vから1500Vに昇圧(この時軌道法準拠から鉄道法準拠に改められている)、また昇圧と同時に旧省電の戦災復旧車(昭和22年登場)や運輸省規格形電車(昭和23年登場)を投入し車輛の大形化を図るなど復興に向けて積極的な設備投資が行われたが、仙台線は農村への買い出しのために小さな軽便列車は常に満員、屋根上にまで人が乗るありさまであったにもかかわらず何ら手を打たれることはなく旧仙台鉄道系の社員の不満は高まっていた。さらに追い打ちをかけるように、昭和23年(1948年)9月に起きたアイオン台風によって七北田川鉄橋、中新田南の鉄橋が崩壊。軌道も各所で寸断され、仙台線は比較的被害の少なかった加美中新田〜中新田(現西古川)間3.4kmのわずかな区間以外はほとんど復旧不能、このままいつ廃線になってもおかしくない状態まで追い込まれてしまった。

●2-3 仙台線の復旧・改軌・電化

  しかしここで状況は一変する。
「鉄路を守れ」を合い言葉に宮鉄が総力を挙げて仙台線の復旧工事に着手したのである。復旧時には将来の市内乗り入れを睨んで、仙台市電と同規格とする事になったため、改軌工事(762mm→1067mm)と電化工事(直流600V)も平行して行われ、新線建設に匹敵する大がかりなものとなったが、新七北田橋の完成をもって、まず北仙台〜七北田間7.4kmが昭和25年(1950年)5月に復旧した。復旧開業時には、市電サイズの車輛を導入して市内直通運転をする事も検討されたが、結局この時は輸送力の確保を優先することになり(市電乗り入れが実現するのは昭和36年)大形車輛を導入することに落ち着いた。しかし終戦後まもない資材不足の折り、車輛を新製することなどとてもできず、状態は二の次、とりあえず走れる車輛をという事で仙石線のお古をはじめとして全国から旧木造省電・私鉄買収車・戦災車など種々雑多な電車が仙台線の七北田車庫かき集められることになった。路線復旧工事は順調に進み昭和25年10月には吉岡(現陸前吉岡)まで、さらに翌26年の7月には加美中新田までの全線が復旧し、被災後三年という歳月を費やしようやく仙台線は災害前の全路線を取り戻すことができた。

●2-4 仙台地下駅の改修

 戦後もようやく落ち着き始めた昭和28年(1953年)には単線のままで残り、電車増発のネックになっていた仙台地下駅の複線化工事および改修工事が行われた。トンネルの老朽化のため雨漏りがひどく、地下駅にもかかわらず雨の日には傘をさして電車を待っていたというエピソードもあったこの地下駅はこの工事により2面3線をもつターミナルに生まれ変わった。この工事の完成により、
仙台〜陸前原ノ町間の完全複線化され、この区間については日中でも15分ヘッドの運転間隔を実現した。

●2-5 観光開発と秋保電鉄の買収

 またこの頃より松島や秋保温泉の観光開発に目を付け始めた宮城鉄道は昭和28年(1953年)に松島を遊覧する汽船会社「松島観光汽船」をその傘下におさめるとともに、翌昭和29年7月には当時経営不振に陥っていた小さなトロリーライン
秋保電気鉄道を吸収合併し、これを宮城鉄道秋保線とした。この秋保電鉄の合併により、宮鉄はほぼ現在の路線網を完成させたことになる。

秋保電気鉄道小史
 宮鉄に買収された秋保電鉄のルーツは大正3年(1914年)に軌間762mmで開通した秋保石材軌道まで遡らなければならない。社名通りに開業当初の目的は秋保石を運ぶために建設されたもので開業当時の動力は馬力長町〜秋保温泉間の16.0kmに1時間半を要し少し早足で歩けば徒歩でもそんなに時間は変わらなかった。しかし、それでも鉄道の威力は絶大で秋保温泉の湯治客は馬鉄開業後わずか10年で20倍以上に増えたという。

 この秋保石材軌道は大正14年には1067mmに改軌・電化され秋保電気軌道と名を改め、トロリーポール集電の小さな電車がマッチ箱形客車を1〜2両引っ張ってコトコト走りはじめた。昭和に入ってから設立当初のメインである石材輸送はコンクリート材におされて減少を続けたものの、旅客輸送のほうは電車に変わってから秋保までの所要時間も短縮されたためもあってかすこぶる順調。昭和18年の輸送人員は電化当初の3倍にまで達したという。昭和19年にはそれまで軌道法準拠だったのを鉄道法準拠に改めて、秋保電気鉄道に改称している。

 しかし順調だったのはここまで。戦後は電車の増備だけでなく、観光開発、宅地開発、バス路線の拡充など経営の多角化を図ったのだが、田舎電鉄会社の身の丈を超えてしまったためか、これがうまくいかず逆に経営を悪化させてしまう。年々増大する累積赤字に絶えきれなくなった秋保電鉄は、仙台市に身売りするか、秋保温泉の観光開発に目を付け始めた宮鉄の傘下に入るかで社内が真っ二つに割れたが、結局宮鉄へ吸収される道を選んだのだ。

●2-6 国鉄への乗り入れの開始

 災害復旧後の仙台線については、中新田(現西古川)から古川までの路線延長を実現するため、
昭和27年(1952年)中新田〜宮鉄古川(現在の古川市役所付近)までの免許を所得した。しかし、国鉄陸羽東線とほぼ平行する事から事業認可がおりないまま、昭和35年にこの区間の路線免許は失効。その代わりというわけではないだろうが、昭和34年(1959年)中新田〜古川間の国鉄乗り入れが認められたため、これにあわせるように昭和33年に国鉄からキハ04形を購入(宮鉄形式キハ3000)するとともに昭和34年には新型の気動車キハ3100形を増備して古川〜北仙台間の直通運転を開始した。



●仙台鉄道小史

 昭和19年に宮城電軌と統合されるまでの仙台鉄道の歴史については史実通りです。





●2-1 敗戦前後の宮城鉄道

 史実上の仙石線では終戦直後の極度の資材欠乏期に電気機関車が客車を引っ張ったという記録があるため、それにならったものです。この時期の仙台線については仙台線の参考とすべき仙台鉄道の史料がないため、よく分かりません。明治期に製造された産業用蒸気機関車云々は全くのでっちあげです。

●2-2 宮城線の昇圧

 軌道法、架線電圧600Vという設定で開業した架空宮電ですが立派な鉄道になるにはどこかのタイミングで軌道法から鉄道法に変更、昇圧しなくてはなりません(実質は鉄道なのにもかかわらずいつまでも軌道法準拠だと国の指導が入るようです。参考までに京浜急行は昭和18年、京成・京王は昭和20年と、軌道で開業した関東の大手私鉄はいづれも終戦前後に軌道法準拠を鉄道法準拠に改めているようです。関西についてはこのへんの基準がゆるかったらしく阪急神戸線や京阪が法規上鉄道になったのは実に昭和53年)。
 鉄道への変更時期として私が選んだのは昭和22年。車輛不足のおり、省線の戦災復旧車を入れたい。でも省線電車のモーターは1500V対応なので、そのままでは走れない。戦中の酷使がたたって変電設備の更新も必要。ならばいっその事1500V昇圧しちまえ。昇圧するなら軌道法では法律にひっかるよ。じゃあついでに鉄道法に変更だー!てな具合です。
 資材不足の折り、こんな設備投資を行うだろうかというむきもありますが、 この時期に昇圧を実施した鉄道も実際に存在したはずです。(どの鉄道だったかは失念。資料探したら書き直します)。

●2-3 仙台線の復旧・改軌・電化

 昭和19年の戦時統合に続いて史実との大きな転換点となるのが昭和23年。この年はアイオン台風が来襲しまして史実の仙台鉄道は北仙台〜加美中新田間という全線の9割以上を廃止せざるを得ないほどの大被害を受けるわけですが、もしもこの時点で宮城電軌と統合されていたとしたらむざむざ廃止にはしないでしょう。それどころか、この被害復旧を改軌の絶好の機会としたはずです。当初は吉岡までが改軌、電化され復旧。吉岡以北はそのまま廃線と考えていましたが、古川と結ばなければ路線の維持ができないというご指摘を受け、結局は中新田(西古川)までの全線を復旧させることにしました。
 路線需要から言えば非電化路線でもおかしくないのですが、燃料事情の悪かった当時ガソリンカーを走らすよりは電化して電車を走らせたほうが効率が良かったようです。実際、終戦直後に多くの地方私鉄が電化されているようです(一例・・弘南鉄道)ので仙台鉄道も改軌とともに電化されたことにしました。
 なお仙台線の復旧時には軌間1067mm・架線電圧600Vとあえて仙石線とは全く違う設定にしました(宮城線は軌間1435mm・架線電圧1500V(昭和22年昇圧)。本文中にも書きましたが、将来的には北仙台から市電へ乗り入れることを考え、市電と規格と合わせたという設定のためです。

●2-4 仙台地下駅の改修

 昭和28年の宮城線仙台駅の改修は史実通り。ただ史実の仙石線はこの時地下駅を放棄して地上ホームに移ったのに対して、架空史では地下駅を拡張したという事にしています。「日本初の地下駅」は宮鉄の重要なアイデンティティの一つでしょうから、もし私鉄のままだったら地下駅を放棄することなく補修しながら大切に使ったはずです。

●2-5 秋保電鉄の買収

 秋保電鉄の買収は昭和29年としました。この秋保電鉄の取り扱いについては一番迷ったところです。戦時中に統合されるか、戦後の合併か、戦後の合併とするとそのタイミングは?市電に吸収されるのか、はたまた史実通りに廃線か。いろいろな物語が考えられますが、ここでは史実ではバス会社仙南交通に買収された昭和29年を合併のタイミングとしました。もしもこの架空史のように宮城鉄道が戦後も残っていたとしたら、仙南交通という会社はそもそも存在しなかったと思われ、その代わり宮城鉄道が仙台市内のバス路線も握っていたと考えます。であれば宮城鉄道が史実での仙南交通の役割を果たすのは至極当然と思われますがいかがでしょうか?皆様のご意見を待ちます。


●秋保電気鉄道小史

 宮城鉄道が買収するまでの歴史については全く史実通りです。

●2-6 国鉄への乗り入れの開始

 仙台線は西古川という妙に中途半端なところで終点ですが、もし宮鉄が買収していたとしたら古川への延長は間違いなく計画されていたはずです。しかし国鉄との平行路線ですし、さすがにこの路線の実現は無理でしょう。そのかわりに小田急「あさぎり」とか南海「きのくに」のように気動車を使った古川までの国鉄乗り入れを行った事にしています。
3.宮城電気鉄道の時代(上)・・・高度経済成長とともに
歴史編 解説編

●3-1 宮城電気鉄道の成立と仙石線の発展

 昭和35年(1960年)という年は宮城電気鉄道の歴史の中でも節目となる年だった。まず同年4月1日より社名をそれまでの宮城鉄道から現在の会社名である
宮城電気鉄道に変更している。さらに7月には現在につながる宮電スタイルの始祖となった新性能通勤車300系と急行車2000系が立て続けにデビューし、宮城線に投入された。同時に宮城線のダイヤ改正が行われ、昭和17年以来となる急行運用が復活。この急行「まつしま」号は、仙台〜石巻間を、本塩釜・宮電松島の2駅停車で52分と現在の快速よりも早く仙石間を結んだ。この頃から多賀城・塩釜両市の宅地開発も手がけるようになり沿線人口が増加。旅客数も順調に伸び続け観光路線としてだけでなく仙台近郊の通勤通学路線としても重要な地位を獲得するに至った。増加する乗客に対応すべく昭和44年(1969年)には陸前原ノ町〜西塩釜間の複線化も行われている。

●3-2 仙台・秋保両線の仙台市電乗り入れの開始

 宮城線については新車を相継いで導入して車輛の体質改善が実現したものの、仙台線については車輛の増備は数両の車輛に鋼体化改造を施した他は専ら買収国電を初めとする他社からの中古車、秋保線に至っては仙台市電からの譲渡車が数両いた他は電化以来のポールカーが未だ現役のままで、昭和30年代に入っても鄙びた田舎路線の性格が強かった。これはターミナルが両線ともに市街地の外れ、仙台線は北仙台、秋保線は長町、であるという事に起因している。仙台線・秋保線の沿線から市の中心に出るには北仙台・長町で市電への乗り換えを強いられるという欠点があり、これが仙台線沿線の七北田・八乙女地区や秋保線沿線の西多賀地区に宅地開発の可能性を持ちながらも今ひとつ発展できない大きな原因となっていた。
 この不便を解消するため仙台線の災害復旧時に検討された
市電乗り入れを再検討する事となった。宮電上層部の働きかけもあって昭和34年の市議会で仙台・秋保両線の仙台市電乗り入れはすんなりと認められ、この結果を受けて秋保線では翌昭和35年1月に早くも仙台駅前までの市電乗り入れが開始されたが仙台線については問題は山積みであった。市電とほぼ同規格の車輛を保有していた秋保線はともかく、この時仙台線の主力となっていた全長17m級の電車では道路上の交差点などの急曲線を曲がれないということの他、仙台線の大型車では市電の車輛限界もオーバーしてしまうのだ。乗り入れ車輛ついては市電サイズの新形連接車の導入(江ノ電を参考に図面まで引かれたらしい)と市電路線の改良の2方向から検討されたが、小型車輛を増備する案は一度に多くの車輛が必要になる事、小型車以外の乗り入れが不可能となる事などから却下され、市電の北仙台線を「北八番丁児童相談所前」から専用軌道で緩やかなカーブを描きながら仙台線北仙台駅構内に入るように路線を改良する案に落ち着いた。またそれとともに車輛限界拡幅工事が北仙台から北二番丁通り沿いに県庁・市役所前まで行われることとなった。昭和36年(1962年)にこの市電北仙台線改良工事が終わり、ようやく仙台線は念願の市電乗り入れを果たしたのである。

●3-3 秋保線の路線改良と大形車輛の導入

 仙台市電乗り入れにより仙台市郊外から乗り換えなしで市中心に出られるようになり、利用者の利便性が向上。宮電の積極的な宅地開発によって仙台・秋保両線の輸送人員は増加に転じ仙台線では
七北田までの複線化による増発が行われた。秋保線については全長10m足らずの電化時からの単車や小型ボギー車では輸送力の限界に達していたため、昭和36年(1963年)5月より車輛限界の拡幅工事やホームの高床化が行われ旗立までは大形車の入線が可能となった。しかし、旗立以遠は旗立〜茂庭間に存在する二つのトンネルがネックとなり車輛の大型化ができずにいたが、ようやく昭和39年(1964年)になってこのトンネルを回避する形で鈎取から分岐して茂庭まで笹谷街道の路肩にサイドリザベーション方式で新線を建設することが決定。翌昭和40年に早くも国道沿いの新線が開通、阪神で余剰となった小型車(それでも今までの秋保線電車と比べれば充分大形車)を導入して念願の全車両の大型化を達成した。旧線は旗立に車庫がある関係で鈎取〜旗立間が枝線として残されたが旗立〜茂庭間はこの時廃線となっている。

●3-4 モータリゼーションの進行と仙台線の苦境

 仙台線の市電乗り入れ車は軌道法の特認は取っていたとはいうものの18m車の2両編成(編成長36m)に限定されていたため、増加する通勤通学客に対応できず昭和40年代に入るとラッシュ時の積み残しが問題化した。またモータリゼーションの進行のため仙台郊外から市内に流入する道路に車が集中、特に宮電が乗り入れている市電の北仙台線や長町線は麻痺状態になり、市電乗り入れ車のダイヤの乱れは日常茶飯事となってしまった。
 乗客が激増しているのに対して路面上の停留所についてはこれ以上の道路の拡幅が困難との理由で従来のからの幅狭のまま改善されず危険性が指摘されてもいた。そんな中、昭和43年8月12日の朝ラッシュ時、北四番丁にて降車時に電車から溢れ出た乗客数名が、走行中の自動車に跳ねられて死亡するという事故が発生、これを受けて同9月1日より仙台線の市電乗り入れは無期限に休止されてしまった。仙台線の市電乗り入れ休止の影響で北郊から直接バスが市内に入るようにバス路線の改廃が行われ、結果道路渋滞はますます激しくなり、宮電仙台線やそれに接続する市電の北仙台線の利用客は減少してしまった。

●3-5 仙台高速鉄道の設立

 昭和44年、市内の道路事情の改善や交通拠点の結節強化を目的として仙台市と宮電、その他地元企業の共同出資という
第3セクター方式によって仙台高速鉄道が設立され、第一期線として北仙台〜県庁前〜宮電仙台間、第二期線として宮電仙台〜長町間を地下線で建設、宮城電鉄と乗り入れをするという計画を発表。もはや限界の明らかとなった市電に変わる大量輸送機関の登場に大方の市民は拍手で迎えたという。
 一期線の工事は昭和49年の開通を目指して翌45年より建設が開始された。昭和48年の第一次オイルショックの影響による経済の停滞から工期は予想より大幅に延びたが、
昭和51年10月に一期線「宮電仙台」〜「北仙台」間が3.7kmが開通(途中駅は「広瀬通」「県庁・市役所前」「北四番丁」の三駅)、仙石線・仙台線両線との直通運転が開始され、同時に市電の北仙台線(北仙台〜北四番丁)が廃線となった。
 ちなみに仙台高速鉄道は神戸高速鉄道や開業時の筑豊電鉄と同じく自前の車輛を持たない第三種鉄道事業者(わかり易く言えばトンネル所有会社)となりこの区間は宮電が第二種鉄道事業者となって乗り入れをしている。

●3-6 仙台高速鉄道開業後の仙台線

 仙台高速鉄道の開通によって、一番姿を変えたのは仙台線だった。まず宮城線と同様に
架線電圧を1500Vに昇圧(ただし、輸送量は少なくなっていたものの国鉄直通の貨物もあったことと、コスト面から宮城線と同じ標準軌に改軌する事は見送られたため、仙台高速鉄道内は日本でも珍しい標準軌・狭軌両方に対応できる三線レール区間となっている)。電車の増備も併せて行い、在来車のほとんどがこの時に廃車となるか、陸前吉岡以北の区間運転用になった。また七北田までだった複線区間を陸前大沢まで延伸し、北仙台口では大幅に電車を増発。その一方で昭和34年以来続いていた陸羽東線の古川乗り入れは乗客減のためこの時廃止されている。

●3-1 高性能車の投入

 昭和20年代終わりから30年代初めにかけて大手私鉄各社は競うように軽量車体にカルダン駆動の高性能車を投入します。30年代半ばにはその波は地方私鉄にも及び、当時大手私鉄からの中古車がほとんど無かったという事情もあるのでしょうが今ではおやっと思うような小さな私鉄でも立派な自社発注の新造車を造っています。
 今で言うところの中私鉄である宮電が高性能車を導入するのもおそらくこの時期でしょう。観光開発にも力を入れていた宮電ですから、おそらくは通勤車の他に急行用車輛も入れたことでしょう。という私の妄想を具現化したのが300系2000系という2タイプの電車です。
 通勤車は冬が寒い仙台に20m級の四扉車の導入はないと考え、18m級の三扉車としました。
 急行用車輛は眼前に広がる松島の大パノラマを眺めることのできる名鉄パノラマカーのような電車が本当はいいのでしょうが、一地方私鉄にそこまで臨むのは酷という事であえて自重して30年代の地方中私鉄を席巻した日車標準型を入れています。
 昭和44年の陸前原ノ町〜西塩釜間の複線化は史実に倣っています。

●3-2 市電乗り入れの開始

 仙台線の市内ターミナルは北仙台。秋保線の市内ターミナルは長町。これではいかにも不便です。これで思い出すのは廃止になった新潟交通や定山渓鉄道、越後交通長岡線といった鉄道です。どの鉄道も沿線人口は決して少なくなかったはずなのに町の中心部に直結していなかったことが致命傷となって廃線となっています。
 せっかく宮電との統合なった仙台線にしても秋保線にしてもターミナルの立地が悪すぎるため、そのまま放置していれば上記の鉄道のように結局は廃線となってしまうかもしれません。
 このターミナルの立地の悪さを解決する手段として考えたのが市電乗り入れです。北仙台も長町も仙台市電の終点ですし、線路を繋げてしまえば市中心まで乗り換えなしで簡単に来ることができますので、手軽に利便性を向上するにはもってこいの手段と考えました。
 史実でも昭和20年代に仙台市電は秋保電鉄との乗り入れを検討していたようで、この時期に造られた仙台市電は秋保線の勾配区間を走ることを前提に設計されていたそうです。こうした事実を踏まえて秋保線の市電直通は確定事項。ただ問題になるのは仙台線の扱いです。仙台線は17〜8m級の大形車が走ることにしていましたから市電直通はちょっと難しいかも。仙台線市電直通を実現するためにちょっと無理な設定になっているかもしれません。

●3-3 秋保線の路線改良

 秋保電鉄は全長10m足らずの小さなポールカーが走る路線でしたから、廃線とならずそのまま存在し続けるとしたらどこかで大型車が走ることができるよう路線改良をする必要があります。その時期はやはり市電乗り入れ開始の前後となるでしょう。本編では秋保線の市電乗り入れ開始を昭和35年1月、秋保線の高規格化を昭和36年5月としました。
 ここで問題となるのは旗立〜茂庭間に存在する二つのトンネルの存在です。よくは分かりませんがこれらのトンネルは当然電化当初の小さな電車を想定して掘られているため、車体幅の大きな電車を通すにはトンネルの掘り直しが必要になるのでは?と考えました。であればトンネルを掘り直すよりは、別に新線を建設するほうが安くつくのではないかと思い、国道沿いに新線を開通させることにしました。

●3-4 モータリゼーションの進行

 仙台という町は他の大都市に比べモータリゼーションの到来は比較的遅かったようですが、それでも昭和40年代には市電は渋滞のため身動きがとれない状態になっていたようです。当然仙台線や秋保線の両線の市内線乗り入れ車も影響を被ったはずです。
 また当時の路面電車軽視の政策下で停留場の拡幅などするわけがないと思いますから、限界以上に人を詰め込んだ電車に、狭い停留所で乗り降りしていたらいったいどういう結果になったかことか・・・。架空鉄道というお遊びの中で死亡事故などというものは本当は相応しくないのかもしれませんがこんな事故も起こり得たかもしれません。

●3-5 仙台高速鉄道の設立

 市内に私鉄のターミナルがそれぞれ孤立して存在し、それぞれのターミナル同士を市電が結んでいる。宮電架空史を進めていくと昭和40年代の仙台の鉄道事情はこのようになりました。これってどこかに似てないかい。そうです。神戸高速鉄道開業前の神戸にそっくりです。町の規模が違うし、神戸は阪急・阪神・山陽・神鉄とターミナル毎に私鉄が異なるのに対して仙台はそれぞれのターミナルを構えるのが宮電一社という小さな(笑)違いはありますが、とにかく似ています。私が似ていると言ったら似ているんだ!
 ということで仙台版神戸高速鉄道の登場と相成りました次第。実際神戸はこの神戸高速鉄道で大成功しているわけですし、似たような状況下にある仙台がそれを真似ても不思議はないですよね。

  
4.宮城電気鉄道の時代(下)・・・そして宮電は今日も走る
歴史編 解説編

●4-1 連続立体交差事業始まる

 仙台高速鉄道の開業により宮城線と仙台線が結ばれ、両線の沿線から電車一本で市の中心部へ行くことができるようになった結果、一時期横這いだった輸送人員は再び増加に転じた。仙台高速鉄道の開業前には宮城線が最大5両編成、仙台線では最大4両編成だった電車が、開業後には両線ともに最大6両編成となり仙台口での運転本数も激増。特に宮城・仙台両線が重複する地下区間(宮電仙台〜北仙台)ではラッシュ時は最大4分間隔で運行されるようになり、ホームは通勤通学客で溢れ変えるようになった。電車本数が増えたことで問題となったのが踏切による交通障害だ。仙台市内と塩釜市内では踏切が原因の交通渋滞が年々ひどくなり、その打開策として宮城・仙台両線の地下化または・高架化を行い踏切を無くそうという構想が持ち上がった。宮城県は昭和49年(1974年)に、仙台〜苦竹間の連続立体交差事業のための調査を開始。その後昭和56年(1981年)に国が事業としてこれを認め、実現に向けての第一歩をしるした。同年塩釜市内では一足先に立体交差化が完了し、
西塩釜〜東塩釜間が高架複線化された。

●4-2 仙台高速鉄道二期線工事の凍結

 当初の計画では仙台高速鉄道は昭和51年(1976年)の一期線北仙台〜宮電仙台間の完成に続いて、二期線宮電仙台〜長町間を建設し、高規格化した秋保線と直通運転する予定であったが、
昭和53年(1978年)の宮城沖地震昭和54〜55年の第2次オイルショックの影響で着工は延び延びになってしまい、また秋保線の輸送人員自体も、長町口での通勤通学需要は若干増加してはいたものの、秋保温泉・磊々峡といった沿線観光地の地盤沈下や観光バスの影響などで全体としては減少を続けているということもあり、いつしか計画自体が棚上げとなってしまった。こうして長編成の電車が短い運転間隔で行き交う仙台市の基幹路線となった宮城・仙台両線とは対照的に、秋保線は使い古した小さな電車が2〜3両で仙台駅前と秋保温泉の間をのんびりと走るという、良く言えばローカルムード満点、悪く言えば時代遅れの典型的な赤字路線だった。ただ赤字路線とはいうものの宮電全体から見れば赤字額はそうたいした額ではなく、仙台市の市域が拡大していることからも将来的には沿線の宅地開発も充分に見込まれたために廃線には至らなかった。しかしだからといって新車の投入や施設の改良といった大がかりな設備投資がなされるわけでもなく、宮城線や仙台線の改良を積極的に進めてきた宮電も、こと秋保線に関しては完全に放置状態であった。

●4-3 高架市電計画の発表

 だが昭和50年代も半ばにさしかかった昭和56年(1981年)、仙台市の
高架市電計画の発表により、放置状態だった秋保線にも大きな変化が訪れる。仙台市電は他の大都市とは違いこの時期まで北仙台線の廃止こそあったものの、ほぼ全盛期の路線網を維持してきたが、仙台高速鉄道の開業後の仙石、仙台両線の沿線への人口のスプロール化によって都心部の空洞化が進み輸送人員は年々減少、市交通局の累積赤字は増加する一方で、もはや路線を維持するのは限界に達していた。当時すでに広島・熊本・長崎など一部の都市では路面電車復権の機運が高まりつつあり、性急に廃止すべきではないという声も一部にはあったようだが、大勢は市電は廃止して来るべき政令都市化に向けて、市電に替わる交通機関として地下鉄やモノレールを建設すべきだという意見であった。しかし地下鉄案は完全に仙台高速鉄道と重複投資となってしまうため費用対効果の点から慎重論が多く、モノレール案も既存の鉄道と乗り入れができないという欠点があった。これを解決すべく仙台市が打ち出したのが、できるだけ在来の市電路線、施設を生かしたまま段階的に高架線に改良、政令都市となる昭和64年度(1989年)までに市電路線全線を高架化し、さらに市北東部や南東部など従来鉄道に恵まれなかった地域への延伸も行うという高架市電計画だったのである。そして高架市電計画には宮電秋保線への乗り入れ事項も盛り込まれていた。

●4-4 高架市電網の完成

 市電の高架化工事は昭和58年(1983年)に早くも開始。工事はまず需要予測の最も高かった仙台〜長町間から始まり昭和60年(1985年)5月に完成。この区間は従来の市電網から切り離されて、真新しい小さなステンレスカーが走り始めた。同時に
秋保線の長町駅も高架化され、秋保線と高架市電の相互乗り入れも開始された。この時高架市電に規格を合わせた久々の新形車5000形を投入。以降、秋保線は鄙びた温泉電車から仙台の都市交通機関へと脱皮していくことになる。  高架市電は後にバブル景気と呼ばれることになる好景気の波に乗って以後順調に延伸を続け、当初の計画通り仙台が政令指定都市に格上げされる平成元年までに旧市電路線網をほぼ踏襲する路線網を完成させ、ビルの谷間を走る高架電車は仙台の新しい顔となっていった。

●4-5 宮城線地下化工事始まる

 市電の高架化と平行するように宮城・仙台両線の立体化工事も宮城県の主導によって進められた。仙台線の北仙台〜東照宮前間の高架化は昭和61年に完成した。
 仙台線立体化事業は平成元年の仙台市政令指定都市化によって事業主体が宮城県から仙台市に切り替わった後も推進され、平成2年には
国道4号線の踏切による渋滞を解消するために七北田〜山の寺間が高架線に切り替えられている。
 一方宮城線の宮電仙台〜陸前原ノ町間の立体化工事は、踏切の解消による渋滞の緩和とともに都市計画上の区画整理を推進するという目的もあったため地下化によって行われる事になった。仙台駅東部地区は、戦災を免れた古い家屋・寺院・墓地が残り、道路も狭く、また宮城線によって市街地が分断されるなど、有効な土地利用 が図られていなかったため、まず宮城線を地下に移すことで新たな道路用地などを生み出し、駅西口との開発の落差を縮小しようというわけである。
昭和60年(1985年)、仙石線地下化工事が起工され、同時に都市計画事業もスタート。まず仙台駅東口から宮城野原総合運動場へと続く、片側2車線の宮城野大通り の建設が始まった。この道路の真下に仙石線のトンネルが掘られることになったのだ。昭和63年(1988年)には、宮城線地下化工事の一環で陸前原ノ町駅に併設されていた車庫が福田町駅西側の水田地帯に移転。移転により設備も刷新され、留置線の本数も増え、将来の車両増にも対応できるようになった。

●4-6 仙台線陸前吉岡〜西古川間の廃線

 このように昭和50年代以降も順調に発展してきたかのように見える宮電だが、著しいマイカーの普及によって仙台市都市圏の外にある仙台線の陸前吉岡以北は苦戦を強いられていた。乗客減により古川までの直通運転は昭和51年に廃止され、さらに追い打ちをかけるように昭和57年(1982年)、仙台と古川をわずか18分で結ぶ東北新幹線が開通したため乗客減に拍車をかけた。宮電は昭和60年(1985年)より、この区間に単行の
ワンマン電車の運行を開始、また沿線各駅の無人化、昭和59年2月の貨物列車の廃止など路線存続に向けて徹底的な合理化を進めたが乗客減は止まることを知らず、ついに沿線の反対運動も空しく平成3年(1991年)3月31日限りで陸前吉岡〜西古川間19.8kmが廃線となった。

●4-7 JRとの競争始まる

 昭和62年(1988年)には
国鉄が分割民営化され、JR東日本となった東北本線は、これまで宮電がほぼ独占していた松島・塩釜から仙台までのシェアを奪おうと、新車の投入や増発、新駅の開業で巻き返しを図ってきた。宮城線には市の中心部まで直通するという利点はあるものの、仙台までの料金はほぼ互角、所要時間は線形の良いJRが宮電を上回ったため、通勤客の一部はJRに流れ、以後今までドル箱だったこの区間は宮電とJRの間で激しい競争に晒されることとなった。
 またバブル経済の崩壊後の不況やレジャーの多様化によって平成6年(1994年)に松島レジャーランドが閉園に追い込まれたのを始め、関連企業の多くがこの時期に倒産に追い込まれている。

●4-8 地下化工事の完成。そして・・・

 暗い話題続きだった宮電の中で久しぶりに明るい話題となったのが世の中がミレニアムフィーバーに湧く平成11年(1999年)も押し詰まった12月の宮電仙台〜陸前原ノ町間の地下化工事の完成である。当初平成7年度とも10年度とも言われていた完成予定時期は用地所得が難航したために延び延びになっていたが、この年ついに完成。着工から実に15年、総事業費訳550億円をかけた大事業はようやく実を結んだのだ。

 そして現在。とうの昔に引退して福田町の車庫敷地内に大切に保存されている「アメリカさん」の横を6両編成のステンレスカーが軽快に走り抜けていく。時は移ろい走る車輛は変われども、80年間一日も休むことなく地道に走り続け、地域の足として親しまれてきた「みやでん」の未来に幸あれ。


●4-1 連続立体交差事業

 電車の本数が増えると当然のことながら連続立体交差化(早いはなしが路線の高架化や地下化)が俎上に上がります。この実施時期については史実の仙石線通りです。

●4-2 仙台高速鉄道の工事凍結

 宮城沖地震(昭和53年)や第二次オイルショック(昭和54〜55年)の影響で仙台高速鉄道の宮電仙台〜長町間の工事が中止されたことにしました。いかにも現実の事件に即してリアルに架空史を書いていますよというように見えますが筆者のホンネは違います。
 ホンネは仙台高速鉄道が全通して秋保線の車輛規格が仙石・仙台両線と統一されたら面白くない。秋保線だけは小型車の楽園にしたいんだようってところです。
 という事で秋保線の路線規格が小型車のままで残る歴史的な裏付けがほしくて、宮城沖地震やオイルショックを利用させていただきました。

●4-3
●4-4 高架市電


 このあたり筆者の妄想が暴走しているところです。要はシカゴの高架鉄道ってかっこいいよね。これを日本で走らせてみたいよね、というところからこの高架市電構想ははじまっています。でも妄想とは言え仙台の市内交通が高架市電でなければならなかったという事に対してそれなりの理由付けはしているつもりです。
 史実では昭和51年に全廃されている仙台市電ですが、架空宮電史では各ターミナルでの結節が強化されていることが功を奏してこの時期(昭和56年)でも全盛期の八割方の路線網を維持している事としています。
 ただ現実的には広島以外の制令指定都市では路面電車はほとんど壊滅状態にあったわけですから、仙台でもいつまでも路面電車を残すわけにはいかないという事で路面電車にかわる市内交通機関について色々と論議がなされたことでしょう。「市営地下鉄を」という声も当然出たと思いますが、仙台高速鉄道という「地下鉄」が既に存在する以上、二重に地下鉄を作ることは考えづらいですね(神戸は神戸高速鉄道があったにもかかわらず、それに平行して市営地下鉄をつくってしまいましたが、明らかな失敗でしょう)。地下鉄より安く作れてしかも渋滞に巻き込まれず既存の鉄道との乗り入れも自由な市内交通機関って何でしょう。ハイ、高架鉄道以外ありえませんね。ということで杜の都をうねうねと走り回る仙台版高架市電が誕生しました。
 「騒音問題はどうするの?」「シカゴの摩天楼の谷間を走るから高架鉄道はかっこいいんだよ!」というような雑音は聞かなかったことにします(笑)



















●4-5 宮城線地下化工事

 宮城線の地下化事業については史実通りに進めています。ただ車庫の福田町移転だけは史実(平成3年)より早めです。我が愛する京成青電最後の生き残り、京成210系の宮電入りをサポートするためです。詳しくは車輛紹介を読んで下さい。











●4-6 陸前吉岡〜西古川間の廃線

仙台線の陸前吉岡以北は沿線人口はかなり少なそうですので、モータリゼーションの進行とともに乗客減に悩むようになったでしょう。仙台の通勤圏からもはずれているようですし。古川方面から仙台に出る乗客はかなりの数をバスに奪われ、昭和50年代には利用者は短距離利用の通学客やお年寄りに限られたのではないでしょうか。東北新幹線の開通により廃線は決定的と思われます。




●4-7 JRとの競争

 今の京阪神間の状況を見れば分かるようにJR化後は仙台〜塩釜・松島間において宮電はJR東日本との激しい競争を強いられたことと思います。JRは当然新駅を作り利便性を向上させ列車を増発してフリークエンシーを高め、ひょっとしたら新車を投入してきたかもしれません。宮電は関東や関西の私鉄のような恵まれた立地ではありませんから運賃水準はおそらくJRよりやや高め、速達性も駅数の多い宮電に不利、市内中心まで電車一本で行ける利便性のみJRに勝りますが、かなり苦しい戦いになったでしょう。「急行」を増発したり「通勤準急」なる種別を新しく作ったりして速達性を高め必死の防戦をしたと思います。