仙台線車輛史1
●1 電化・改軌時の車輛
 
 昭和23年9月のアイオン台風により壊滅的な被害を被り全線の大半(北仙台〜加美中新田間)が運休に追い込まれた仙台線だったが、路線復旧の際には当時の燃料事情を勘案し、また逼迫した輸送力の向上を図るため1067mmに改軌・電化(直流600V)することになった。このため路線復旧作業は2年に及ぶ大工事となったが、昭和25年5月、まず北仙台〜七北田間が復旧。さらに同年10月には陸前吉岡までが復旧した。

 電化改軌時には14両の電車が用意されたが、全国的が車輛が不足している中、全ての車輛を新製車で揃えるなどもっての他で、3両の電車を製作するのがやっとであった。その他の11両は仙石線からの転属車・や買収国電など、全国から使い古された電車がかき集められている。全国から多種多様な電車が集まり後には電車博物館という異名を持つようになる仙台線だが、実は開業当初から既に多様な電車が集結していたのである。


 初期の仙台線の電車はモハ1400・モハ2422など1400番台、2400番台の車番を付番されているが、これは当時の東北地方の私鉄独特の付番方式に則ったもので千位は1が木造車、2が鋼製車を表し百位は車軸数を表している(従って二軸ボギー車の百位は4となる)。このためほとんどの電車は24××と付番されることになるため、車両数が増えると番号が詰まり昭和30年代前半には早くもこの原則は崩れている。

■1−1 モハ2400形(2400〜2402)  1950年登場 

モハ2400形
解説編 作者のつぶやき
 
 昭和25年(1950年)5月の仙台線北仙台〜七北田間電化・改軌時に投入された電車の一つ。仙台線改軌時には全国から多様な電車がかき集められたが、この2400形は唯一の新造車である。車輛メーカーは当時中小私鉄の新造車を一手に引き受けていた日本鉄道自動車(後の東洋工機)。小さいながらも好ましいスタイルの15m級二扉車で、類型車は北陸鉄道1000形・1100形(のちの3000形)、近江鉄道クハ20形・モハ50形、新潟交通クハ36など全国各地に散見された。しかし車体は新造ながら当時の苦しい台所事情を反映してか、主電動機・台車・主制御器などの主要機器は宮城線昇圧により不要になったものを改造して使用していた。

 入線当時は仙台線でピカ一の新車として活躍。仙台市交通局への乗り入れが始まると小柄な車体を生かして乗り入れ指定車となった。

 仙台線の改軌電化時に新造車が作られるとすれば、どのような電車がいいのか?悩んだ末の結論がこれ。モデルは北陸鉄道3000形で昭和24年日鉄自製です。日鉄自といえば、戦中から戦後にかけての地方私鉄の御用達メーカーで、正体不明の木造車の台枠を流用した怪しげな新造車の数々をでっちあげていましたが、その一方で、鉄道模型の自由形電車のプロトタイプにしたら似合いそうな、こんな好ましい小型電車も作っていたわけです。

 実際宮城電気鉄道はモハ800形の一部を日鉄自で製作しており、メーカーとの付き合いもあったものと思いますので、もしも仙台線が本当に存在したらかなりあり得た選択肢ではないでしょうか?
 
■1−2 モハ2410形(2410・2411)・クハ2450形(2450・2451) 1950年仙台線転属

モハ2410形

クハ2450形
解説編 作者のつぶやき

 モハ2410形・クハ2450形の前歴は昭和25年に行われた宮城線1500V昇圧時に昇圧改造されず休車となっていた宮城線500形、400形で、ともに旧宮城電気軌道からの引継車である。仙台線転属に際して台車の狭軌化やボギーセンター間の延長工事が行われたが車体に関しては、車体塗色を仙台線の標準色であるグリーンとクリーム色に塗り替えた以外はほとんど手を加えられていない。

 
 近鉄養老線・伊賀線、東武野田線、阪急嵐山線etc、大手私鉄には歴戦の古豪がその最期を迎える路線が必ずあって、その昔筆者が熟読していたヤマケイの私鉄ハンドブックでは、そんな路線を「終の棲家」線と読んでいるという記載があったわけです。子供心に、なかなかいい言葉だと思いましたね。
 仙台線も宮城線から移ってきた古豪の安住の地、「終の棲家」線とすべく、このように宮城電気軌道時代の古豪を転属させてみることにしました。新造車が全く入らないわけですから、架空世界の仙台線利用者にとっては迷惑な話だと思いますが・・・。

■1−3 モハ1400形(1400) 1950年仙台線転属

モハ1400形
解説編 作者のつぶやき
 
 1400形も2410・2450形と同様に宮城線からの転属組で宮城線時代は900形を名乗っていた。車体を見てお分かりのように、さらに前歴を辿れば鉄道省が大正11年に製作した木造電車、いわゆる木造省電である。

 転属に際しては台車を狭軌台車に交換する程度で、主要機器のほとんどは、そのまま使用された。17m級車体を持ち、登場時仙台線では随一の大型車であったが、木造車体の老朽化が激しく、昭和33年に鋼体化され2500形に生まれ変わって姿を消した。
 
 この木造省電の末裔、唐突に1400形などとキリの悪い数字で付番されチト面妖な、と思うかもしれません。1400形もそうですが、初期の仙台線車輛は2400形、2410形、1410形と全て百の位を4で統一しています。実際、当時の東北の陸運局の指導(うろおぼえ)だったとかで、千の位の1を木造車、2を鋼製車、百の位は車軸数を表すように東北私鉄各社は車番を改番したと聞きます。仙北鉄道・栗原電鉄・秋保電鉄・十和田鉄道・津軽鉄道あたりが、この方式に拠って付番していますね。無視したのは羽後交通、庄内交通、花巻電鉄、松尾鉱業、南部鉄道あたりでしょうか?個人的には弘南の電動車22××、制御車12××という付番方式もこの原則に何らかの形で則っているのではないかと思います。

 全体的に言えば宮城県の私鉄ほど忠実にこの付番方式を守っており、宮城からはなれるほど無視する傾向にあるといえます。とすれば、仙台線は宮城県ですから、この方式に則ったと考えるのが自然かもしれません(車両数の多い宮城線は無視せざるをえない)。初期の仙台線の車輛が1400番台・2400番台を付けているのはそんな理由からです。

■1−4 モハ1410形(1410・1411) 1950年登場

モハ1410形
解説編 作者のつぶやき

 前歴は豊川鉄道(現在のJR飯田線の一部)電化時に作られた木造電車モハ10形である。大正14年日本車輌製で木造車時代末期の作らしく深いシングルルーフに前面丸妻のなかなか整ったスタイルの15m級車であった。豊川鉄道が鉄道省に買収されたのち、モハ10形は昭和24に廃車。全部で5両いた仲間のうち3両が県内の大井川鉄道や田口鉄道に引き取られ、残り2両が遠く宮城県の宮城鉄道仙台線にやってきた。仙台線入線に際して主制御器をデッカーからHLに変更。主電動機も宮城線昇圧時の発生品WH540-JD6(41.4kw×4)に変更しているが台車は原型の省形のままであった。

 木造車体のため老朽化が激しく昭和34・35年に相継いで鋼体化され、前述の1400形ともども日車標準車体に生まれ変わっている。

1400形履歴
●豊川鉄道モハ11→国鉄モハ11(S24.4廃車)→宮城鉄道モハ1410
●豊川鉄道モハ12→国鉄モハ12(S24.4廃車)→宮城鉄道モハ1411
 
 私にとって譲渡車探しはパズルみたいなものです。一部の例外を除いて、実際に廃車になった車輛しか宮城鉄道に入線できないという脳内ルールがあるので、同じ時期に路線条件にあった廃車を資料とつきあわせて探さないといけないわけです。そんな訳で昭和20年代は全国的に戦災車以外に廃車も少なく、車輛集めにはかなり苦労しました。

 昭和25年の新規開業路線に入線できる中古車で車体長は14〜17m程度、車体は時代を考えると鋼製車がベスト、という条件で車輛探しをしてみたのですが、下記の南武の2形式以外には適当な車輛がないのが現状でした(該当車は大正10年製でボロボロと思われる井の頭線に貸し出された元青梅のニセスチール車くらいか?)。

 そこで、木造車まで手を広げるとありました、ありました。豊川鉄道のモハ10形です。昭和24年に廃車後、2両のみ引き取り手がなく解体されています。大井川鉄道や田口鉄道にいった仲間は車体に鋼板を張ってニセスチール化されて昭和40年代まで働いていますから車体の状態もそう悪くはないでしょう。と、いうことで我が架空史の舞台にも登場願った次第です。
 
■1−5 クハ2460形(2460・2461) 1950年登場

クハ2460

クハ2461
クハ2460形
解説編 作者のつぶやき

 クハ2460形の前身は大正15年から昭和6年にかけて汽車会社で製作された15m級二扉車、南武鉄道(現JR南武線)モハ100形である。南武鉄道は昭和19年に鉄道省に買収されているから、この100形も買収国電の一つということになる。100形は車体の大きさが手頃だったためか廃車後に東濃鉄道・流山電気鉄道・熊本電気鉄道・秩父鉄道など各社に譲渡されているが、モハ103・モハ111の2両は昭和24年の廃車後東急横浜製作所で車体を整備、電装解除のうえ昭和25年に宮城鉄道入りしている。

 入線にあたっては台車を手持ちのBW78-25台車に交換して他車と仕様の統一を図った程度でほぼ原型のまま、主にラッシュ時の増結用として使用された。2460形の前身の南武100形は当時としては比較的長期間にわたって製造されているため、各車細かいところで差異があり、趣味的に面白い形式だったが、宮城鉄道入りした2両についてもクハ2460は大正15年製の一次車、クハ2461は昭和3年製の二次車にあたり、リベットの打ち方やウインドシル・ヘッダーの形状などに違いが見られる。

 
 買収国電の代表形式と言っても良いでしょう。南武鉄道のモハ100形のご登場です。実車は15m級二扉車で使い勝手が良かったのか、国鉄廃車後に全国各地の地方私鉄にドナドナされました。中には譲渡された先から更に再譲渡といった例も少なくなく、最後の1両高松琴平電鉄クハ81が引退したのはごくごく最近、平成10年というのも本車の優秀性のあらわれでしょうか。仲間が全国に散っている点からも、地方私鉄を再現する際には是非ラインナップに加えておきたい1両であります。

 宮城鉄道に入線したという設定のモハ103・111の2両は実際には東急横浜製作所入りしたあと放置され、解体という運命を辿っています。引き取り手が現れると踏んで東急横浜製作所が先走って購入したものの、どこからも引き合いがなかったものと思われます。
 
■1−6 クハ2470形(2470・2471) 1950年登場

クハ2470形
解説編 作者のつぶやき

 クハ2460形と同じくこちらも元南武鉄道の買収国電で前歴は南武クハ210形211・212。昭和14年の木南車輛製で南武鉄道としては後期の作にあたるため2460形とは同じ会社の作とは思えないほど車体形状は異なっている。クハ210形は南武鉄道の鉄道省買収後、国鉄時代の昭和24年に廃車。宮城鉄道に譲渡された。

 台車は、もともとは南海の廃車発生品と思われるブリル27GEを履いていたが、入線時に省形のTR10に交換している。初期の仙台線車輛の中では2400形についで車齢が若く、また全長15.5mと仙台線の車輛の中では大型車体であったため入線時は仙台線の主力として活躍した。
 南武鉄道の210形は私としてはかなり「謎」の多い車輛の一つです。実車は解説編に記載のように昭和14年10月製。廃車は昭和24年3月28日となっています。実働は僅かに10年足らず。やや小型の車体のため国鉄では使い物にならず早期に廃車になったのはうなずけますが、地方私鉄に再就職できなかったのは何故でしょう。当時この程度の手頃な大きさの鋼製車は各社から引っ張りだこだったはずで、現にほぼ同じサイズで車齢はずっと古いの鶴臨110形や南武100形は売れ行き好調でした。同じ210形の兄弟クハ213・214も常総筑波鉄道に譲渡されて客車として再起して長く活躍していますから、車体構造に欠陥があったというわけでもなさそうです。単に運が悪かっただけなのか、それとも何か別の事情があったのか?実際の事情はよく分かりませんが、異例の早さで廃車になった悲運の買収国電に第二の車生を与えてみることにしました。
●付録
1(宮城鉄道仙台線車輛緒元表)昭和25年10月現在(製作中)

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