新京成展示室(その2)

2000形
 
 生まれは書類上は昭和25年〜27年大栄車輛製となっているが、もとをただせば戦災を受けた17m級省電、いわゆる焼電を譲り受けて叩き直したものである。ただ車輛限界の小さい京成では大柄な省電車体そのままでは使用できないため、車体を唐竹割りして車体幅を200mmつめる改造を行っている。この改造のため正面貫通路が非常に狭くなってしまったことが外観上の特徴だ。全17両が登場しているが、最後に登場した昭和27年製のクハ2017・2018のみ車体復旧時に車体新製を行ったため、この2両は外観が他車と異なっていた。車体復旧車、新製車ともに窓配置はd1D4D4D2といういわゆる関東形を京成で初めて採用。この窓配置が後の新製車2100形、700形や戦前製の更新青電に受け継がれた。

 もともと戦災車で車体の状態は悪かったため、前述のクハ2017・2018以外の16両は昭和32年〜36年と比較的早期に車体更新を受けて、側面通風器付きの新製車体に生まれ変わっている。京成では100・200・220・500・600形など青電各形式の制御車として活躍。相棒となる電動車の移籍に伴い新京成へは昭和39年〜53年の長期にわたって都合12両が入線。未更新の半鋼製車体のまま新京成に移籍したクハ2017・2018については後述の1100形の項で解説
するので、ここではそれ以外の10両について解説しよう。

 図1-1・1-2は昭和41〜43年に220形や600形とともに新京成にやってきた6両である。台車はもともと省形のTR11や雨宮製A-1形台車を履いていたが、昭和50年前後にD-16に履き替えており、下図ではその頃の姿をモデルにしてみた。昭和50年代に入ると、列車の長編成化が進みクハ2000形は編成の先頭に立つことはなくなり、クハ時代の面影を残したままサハ化された(図1-3・1-4)。昭和50・53年に入線したクハ2009・2011(図1-5、1-6)は2000形の中でも異端車では廃車により余剰となったFS28形台車を履いていた。

 新京成では電動車各形式と組んで働いた2000形だが車体更新後20年近くが経過し、各部の陳腐化が目立ってきたため100形に続いて昭和53〜55年にかけて車体の特修工事が行われた。工事の内容は100形と、ほぼ同様で、側扉のステンレス化、下樋の撤去、運転台の完全撤去などである。この特修で(図1-6〜1-9)のように、生まれたときから中間車と言っても分からないほど完全な中間付随車に改造されたが、旧運転台側の車体隅柱が太く、わずかに旧運転台の面影を残している。

 異端車サハ2009・2011の2両はこの特修工事対象から外れており昭和56年に600形と並んで真っ先に廃車。その後相棒の電動車が廃車になるたびに徐々に仲間を減らしていったが、サハ2007・2010(図1-8、1-9)の2両は、200形と編成を組んでいたため新京成で最後まで残った旧形車となることができた。
1−1 クハ2006・2014・2016
1−2 クハ2005・2013・2015
1−3 サハ2006・2010・2014・2016
1−4 サハ2005・2007・2013・2015
1−5 サハ2009・2011
     1−6 サハ2005・2013・2015
     1−7 サハ2006・2014・2016
     1−8 サハ2007
     1−9 サハ2010
600形
 
 昭和23年帝国車輛製の運輸省規格型電車で全10両が登場。この形式より従来京成の伝統であった左右非対称の窓配置をやめdD5D5Ddの左右対称の平凡な窓配置となった。車体更新工事は100形・2000形の後を受けて昭37に施行。700形・2100形と似た全金属車体に生まれ変わった。この600形車体が以後の青電車体更新車に受け継がれることになる。
 新京成へは609・610の2両のみ昭和43年に220形・2000形とともに新京成に移籍している。残りの601〜608の8両も順次新京成に移籍する予定であったが、京成での廃車計画の遅れから実現していない。

 609・610は新京成ではたった2両の少数車であったためか、他形式のように延命改造されることもなく、旧形車としては比較的早く昭和56年に廃車されている。
2−1 モハ610
2−2 モハ609
220形

 昭和21年帝国車輛製で戦後初の新車。新製車としては戦前の京成の伝統を受け継ぐ左右非対称窓配置を持つ最後の車輛となった。車体更新は600形に続いて昭和39年に施工。この形式より、前面のアンチクライマーが左右に分かれたので、正面の印象が変わっている。新京成移籍は昭和42〜43年。

 図3-1・3-2は移籍当初の姿。図3-3・3-4は、側扉のステンレス化、固定編成化による前面貫通路の埋め込み、前照灯のシールドビーム二灯化が行われた末期の姿である。
3−1 モハ220・222・224
3−2 モハ221・223
3−3 モハ220・222・224
3−4 モハ221・223
500形

 新京成500形の前身は日本車輌製昭和9年登場のクハ500形と昭和10年登場のクハ510形に遡ることができる。ともに、200・210形の制御車として登場.。左右非対称の窓配置を持つ戦前の京成を代表する車輛の一つであった。500形(クハ501〜509)と510形(510〜509)はそれぞれ10両ずつ製造されたが、新京成500形の前身となるのは、昭和34年の京成電鉄改軌時(1372mm→1435mm)にFS28形台車を新造して電動車化されたモハ500〜502・510・513〜519のグループである。このグループは昭和41〜43年にかけて車体更新され近代的な全金車体に生まれ変わっている。更新後の車体は後述の200形と同じである。

 新京成には昭和50年にモハ500〜502、昭和53年にモハ510・518・519の計6両が入線した(残りのモハ513〜517は新京成に移籍することなく京成で廃車)。モハ510・518・519は新京成入線時にそれぞれ504・503・505に改番されている。図4-1〜4-2は、その移籍当時の姿である。新京成では原則的に津田沼方に運転台を持つ車輛に奇数車番、松戸方に運転台を持つ車輛は偶数車番に付番しているがモハ505のみ奇数車番ながら松戸方に運転台を持つ異端車であった。

 500形はその後、他車と同様に側扉のステンレス化、前面貫通路の埋め込みなどの改造を受け、また北総開発鉄道乗り入れのため、誘導無線アンテナを屋根上に取り付けている(図4-3・4-4)。最終的には中間に1100形や2000形付随車を組み込んだ5M3Tの8両固定編成となった。8両固定化に際してはモハ505は電装を解除されサハ2302に改番された(図4-5)。
 500形は京成時代の車体更新時に機器類も大幅な更新を受けており、そのためか200形と並び新京成旧形車としては最後まで活躍した形式となった。
4−1 モハ500・502・504・505
4−2 モハ501・503
4−3 モハ500・502・504
4−4 モハ501・503
4−5 サハ2302
700形
 
 昭和27年にそれまでの京成スタイルを一新して戦後の京成スタイルを確立した2100形が登場した。この2100形の後を受けて翌昭和28年に登場したのが700形で、電動車はモハ700形、制御車は2100形の続番でクハ2200形を名乗った。2100形とほぼ同じノーシルノーヘッダーのスマートな車体に、ウイングばねの新形台車、多段式制御器を取り付けた京成としては革新的な新車だったが、車体は半鋼製、駆動方式は釣掛式と技術的には過渡期にある車輛である。
 モハ・クハ各3両(モハ701〜703・クハ2201・2202・2204)づつが製造されたが、クハ2204はすぐに電動車化されモハ706となり、京成時代は真ん中にTc車を挟んだ2M1T、後に更に2100形を中間に組み込んで2M2Tの4両編成2本で使用されていた。
 昭和45年に室内の全金化改造を受け、その時に編成の中間に挟まれてほとんど使用されなかったクハ2201・2202・クハ2110・クハ2111は運転台を撤去して完全な中間車となった(形式上はクハのまま)。新京成移籍は昭和50年。移籍後に6連で使用するため、2M2T編成から中間付随車を一両づつ抜いてMc−T−Mcの3連2本が移籍した(編成から外されたクハ2202・2110はそのまま廃車)。新京成移籍時に前照灯のシールドビーム二灯化、側扉のステンレス化などの小改造が施されている。図5-1〜5-4は新京成移籍当初の姿である。

 他車とは機器類が異なり混結できないため、新京成では700形3連を2本繋げた6連で終始運用され他形式と併結されることはなかった。多段式制御器を持ち新京成旧形車中では最も高性能を誇った同車だが、他車と互換性のない特殊な機器を使用していることが仇になり、旧形車としては意外に早く昭和60年に廃車となってしまった。図5-5〜5-6は前面貫通路が埋められたその末期の姿である。

5−1 モハ702・706
5−2 モハ701・703
5ー3 サハ2111
5−4 サハ2201
5−5 モハ702
5−6 モハ703
200形
 
200形は昭和6年の日暮里開通時にモハ200から209の10両が製作された戦前の京成を代表する車輛である。この形式より17m級車体を採用、さらには京成独特の左右非対称窓配置を初めて取り入れ、戦前の京成スタイルの元祖となった。この京成スタイルは後に登場する210形・500形・510形・1100形、さらには戦後登場の220形まで受け継がれている。
 車体更新は昭和39年〜40年。この形式以降運転台高さが100mm上がった関係で、正面窓の位置も若干変わっている。200形は出力130kwのSE198形主電動機を装備しており、釣掛車の中では最大出力を誇っていた。それゆえに営業用釣掛車として京成では最も遅くまで残った形式の一つで、新京成移籍は昭和53年であった。新京成にはモハ209を除く9両が移籍している。図6-1・6-2は他車同様に前照灯のシールドビーム二灯化された移籍当時の姿である。
 その後、編成の固定化により使用されなくなった前面貫通路の埋め込みが行われ、編成先頭に出ていたモハ201・204・205については図6-3・6-4のように貫通扉跡にステンレス製の飾り帯が付けられた。また一部車輛についてはパンタグラフの撤去が行われている。また固定編成化によるMT比見直しにより、モハ203は運転台機器の撤去と電装解除が行われ、サハ2301(図6-5)となった。
 200形は、車体更新時に機器類も大幅な更新を受けており、そのため新京成旧形車の中では最後まで残った形式となったが、平成2年、最後まで残ったモハ204以下の8両が廃車となり、新京成線上から非冷房車・旧性能車が姿を消した。
6−1 モハ200・202・204・206・208
6−2 モハ201・203・205・207
6−3 モハ204
6−4 モハ201・205
6−5 サハ2301
主な編成例
610F(昭和50年)【モハ610+サハ1108+モハ101+サハ1106+モハ609】
※600形は早くに廃車されているので資料不足でよく分からない点が多い。一応上記のような編成を組んでいたこともあるらしい。

224F(昭和60年)【モハ224+サハ1114+サハ2006+モハ223+モハ126+モハ222+サハ1115+モハ221】
※220形末期の編成。8両編成に組んだ100形以外の旧型車は上記のように5M3T、パンタグラフ三個が標準であった。

501F(昭和50年)【モハ126+サハ1106+モハ502+サハ2011+モハ500+モハ501】
※昭和50年の500形入線第一陣。上記では126形+1100形を相棒にしているが、時には600形と組んだり、半鋼製の100形と組んだりと様々な編成が見られた。

504F(昭和61年)【モハ504+サハ1106+サハ2302+モハ503+モハ502+サハ2005+モハ500+モハ501】
※8両化された末期の500形編成。やはり5M3Tでパンタは三個である。

702F(昭和60年)【モハ702+サハ2201+モハ701+モハ706+サハ2111+モハ703】
※700形は昭和50年の入線以来終始上記の編成で走っていた。凸凹編成が魅力の新京成旧型車群にあって随一の編成美を誇っていたように思う。

204F(平成2年)【モハ204+サハ2301+モハ208+モハ207+モハ206+サハ2007+サハ2010+モハ205】
※新京成で最後まで残った釣掛編成。廃車後モハ204については京成に戻され宗吾車庫で保存車として余生を過ごしているそうだ。

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