羽後交通雄勝線1991


※以下のコンテンツは、史実では昭和48年3月31日限りで廃線となった羽後交通雄勝線が、もしも90年代まで存続していたら、ということを筆者が妄想したフィクションです。よって以下の記述は全て架空であり現実の羽後交通(株)とは何ら関係がないことをあらかじめご承知下さい。
1.はじめに
 草蒸した道床からところどころ顔を除かせる鈍色のか細い30kgレール、雄大な雄物川をコトコト渡る古びた単行電車、冬場ともなれば可愛らしいラッセル車が出動して、ともすれば雪の中に消えそうになる線路を懸命に守っている。トロリーラインという言葉は死語になりつつあるが、奥羽本線の湯沢駅からファンの間では難読駅名として、また近年では盆踊りでも有名な西馬音内(にしもない)まで僅か8.9km結ぶ羽後交通雄勝線を紹介するには、まさにこの言葉が相応しい。

 かつて東北地方は国鉄駅から分岐して、鉄道に恵まれなかった町を結ぶ小さなトロリーラインの宝庫であった。しかし、これらの小さなトロリーラインは時代の流れには抗すべくもなく、一つ、また一つと櫛の歯が抜けるように姿を消していった。秋保電鉄、花巻電鉄、山形交通、庄内交通etc.。そんな中で孤軍奮闘を続けていた羽後交通雄勝線はファンとして気になる存在ではあったが、やはり、というべきか、とうとうというべきか、来るべき時が来てしまったようだ。今回、欠損補助の打ち切りに伴い雄勝線の来年三月いっぱいでの廃線を羽後交通が表明したというニュースを聞いて、私は、いても立ってもいられず、久しぶりに東北最後のトロリーラインを訪れるべく上野発の夜行列車の車中の人となっていた。
2.沿革

2-1.はじめに

 羽後交通雄勝線の開業から現在に至る詳細な沿革については前回までのレポートにて既に掲載済みのため、ここでは詳しく触れない。ただ、前回掲載時(昭和46年7月)に、すでに鉄道営業の廃止が決定しており、雄勝線もあと三年走ることはないだろうと結論めいたものを書いたのであるが、どっこい社会情勢の変化によって雄勝線はそれから二十年の長きに渡って延命することとなった。そこで今回は、前回掲載時以降の歴史に絞って解説していきたい。

2-2.土俵際の逆転劇

 昭和45年9月26日の臨時株主総会において、羽後交通が鉄道営業(雄勝線・横荘線)の廃止を決定し、翌年7月20日限りで横荘線は廃線となった。しかし、雄勝線については、冬季を中心に未だかなりの通学需要が存在したことから、地元自治体がバス転換に難色を示し三年間の期限付きで、沿線の湯沢市・羽後町両町が年額350万円の補助金を交付し鉄道線を存続することになったのである。ひとまず廃線の危機を回避したかに見える雄勝線であったが、補助金交付は三年の期限付きであることから、所詮は一時しのぎの延命であり、補助金の交付期限となる昭和49年3月限りでの路線廃止は避けられないというのが大方の見方であった。
 しかし、ここで世の中を大きく動かす一大事件が発生する。昭和48年の第一次オイルショックである。日本列島を恐慌に陥れたこの災厄は逆に瀕死の雄勝線に福音をもたらすことになった。「マイカー」よりもはるかにエネルギー効率が良い「鉄道」を見直すべきだという世論が盛り上がりを見せる中で、雄勝線でも沿線住民による鉄道廃線反対運動が活発化しはじめ、それに動かされるように、それまで3月での補助金打ち切りを表明していた湯沢市・羽後町両自治体は、49年4月以降雄勝線に対して欠損補助金の交付を行なうことを表明したのである。こうした流れを受けて、羽後交通は昭和49年3月の臨時株主総会において、「欠損補助金の交付を受けながら当面の間鉄道を存続させ、条件が整い次第バス転換する」と方針を修正することとなり、ひとまず廃線の危機は去ることとなった。

※欠損補助制度
欠損補助制度とは、鉄道軌道整備法(昭和28年制定)第8条第2項に基づき「1日の輸送人員が8千人以下で、ラッシュ1時間では1千人以上の利用者がある、代替輸送機関のない地方中小私鉄」(ただしバス転換が著しく困難な路線は除外)を対象に行われるもので、各年度の赤字額を国と地方自治体が2分の1ずつ補助する制度である。当初「国が予算の範囲内で欠損金の額に相当する額を限度として補助するもの」となっていたが、昭和47年度からは「欠損額を国と地方公共団体が折半して負担する」と改定された。財政基盤の脆弱な沿線自治体に折半させるというのは、沿線自治体側はもちろん、補助を受ける鉄道会社にとっても大変厳しい条件であり、この条件が付加されて以降の出来事であった雄勝線の逆転劇は沿線自治体の並ならぬ決意を窺わせるものと言えるだろう。

2-3.鉄道存続のための企業努力

 欠損補助制度の導入によって路線廃止の危機はひとまず去ったものの、昭和49年当時、車輛・施設ともに老朽化が進み、恒久的な存続のためには、これらの更新が急務となっていた。特に車輛面では当時既に貴重な存在となっていたポール集電を採用していたため、運行には車掌乗務が必須であり、ワンマン化等の合理化を行うための大きな障害となっていた。そこで、昭和50年に廃線となった山形交通からパンタグラフ集電式の中古車を導入し、在来車の一部と置き換えて日中のワンマン化を図り、同時に朝夕を中心に増便しフリークエンシーの向上に努め、乗りやすく地域に密着した鉄道を目指すための営業努力が行われた。施設についても、昭和53年より、信号方式をタブレット・スタフ閉塞から特殊自動閉塞式に改め、中間駅は全て無人化されることとなった。これら一連の合理化によって営業キロ当たりの人員数は昭和45年当時の5.4人から昭和55年当時2.2人にまで削減された。こうして昭和50年代半ばまで、鉄道存続のためにあらゆる手段を尽くして合理化を進めた結果、昭和44年次で165.3にまで膨らんだ収支係数(100円の収入に対してかかる経費)を昭和56年には109.4にまでに圧縮することに成功した。
 
2-4.刀折れ矢尽きて・・・

 昭和50年代に入って雄勝線の収支は大幅に改善したものの、それは合理化を行き着くところまで推し進めた結果によるもので、沿線の過疎化や、少子化に伴う通学客の減少などで、輸送人員自体は下降線を辿り、昭和57年以降再び赤字額は増大し始める。昭和48年当時1200人であったキロ当たりの輸送密度は、昭和53年には1000人の大台を割り、昭和60年には700人代に突入。ラッシュ時に行われていた三両運転は廃止された。同じく昭和60年から日中の車内に自転車持ち込みを認めるというアイディアを打ち出し、マイカーによるドアツードアに対抗したが、裏を返せば日中いかに車内が閑散としているかの証明に他ならない。近年になって無形文化財、西馬音内盆踊りが注目を集め、祭日ともなると県内外から多くの観光客が訪れ、開催期間中は増発や、三連運転なども行われるなど、明るいニュースもあるにはあるが、これとて大勢を覆すものではなく、欠損補助額は年々増大し、有力な財政基盤を持たない湯沢市、羽後町両自治体の財政を圧迫するまでに膨れ上がっていった。
 平成2年、助成基準を満たしていない事業者が過半数を占めること、また対象会社が10年以上恒常化し、今後も改善の余地が見られないことから運輸省は欠損補助制度の見直しを発表。羽後交通、栗原電鉄、野上電鉄の三社には平成3年度限りでの助成打ち切りを通達した。このことは、欠損補助を前提で成り立っていた雄勝線にとっては死刑宣告にも等しいものであった。これを受けて、県下でも有力なバス会社である、羽後交通では雄勝線のバス転換に際してさしたる障害もないため、早々に路線廃止を表明。欠損補助の打ち切られる平成4年3月31日付けで昭和3年開業以来64年の歴史に幕を閉じることとなった。平成2年度の輸送密度は545人/kmまで落ち込んでいたという。

3.路線・施設
 羽後交通雄勝線は湯沢〜西馬音内間8.9km、全線単線である。駅は6ヶ所あり、両端の湯沢と西馬音内に駅員が配置されている他は全て無人駅である。交換設備を有する駅は羽後三輪、羽後山田の二駅であるが、羽後山田の交換設備は通常使用されない。

 軌間は1067mm、軌条は30kg/m。枕木は全て木製である。最小曲線半径は湯沢〜羽後山田間に二ヶ所あるR160。橋梁は全部で10ヶ所あるが、最長のものは湯沢〜羽後山田間にある雄物川橋梁で、ここは雄勝線随一の撮影地としても有名。最急勾配は雄物川橋梁の両端にある築堤部分の10‰で、トンネルはなく、全体に平坦な盆地を走る路線である。電圧は直流600Vで架空単線式。閉塞方式は特殊自動方式で、信号は二位色灯式となっている。

 車庫は西馬音内にある。電車留置能力は4両。日中は一両使用ですむため、ここでは多くの電車が昼寝している姿を見ることができる。
4.運転
 雄勝線のダイヤは上りが西馬音内発6:30〜19:00の間に13本、下りが湯沢発7:20〜20:05の間に13本が設定されている。12:00〜1300までの時間帯にかかる列車は運転されず、昼休み休憩となっておりこれが他の鉄道では見られない運行上の特色となっている。上下の列車交換は通常羽後三輪で行うが朝ラッシュ時以外は見られない。羽後山田にも側線が残されており列車交換は可能であるが、多客期に列車が増発される時以外は通常使用されない。列車種別は全て各駅停車で全線の所要時間は26〜33分である。

 運用は最大出庫本数が平日朝ラッシュ時の2両編成×2本で、日中は1両編成が1本使用されるだけである。2両編成車には車掌が乗務、単行運転の場合は全てワンマンカーによる運行となっている。2両編成車は西馬音内発6:30、7:31湯沢発7:20、18:10の2往復。2両編成車は通常は電動車と制御車がペアを組んでMc−Tcで運行されるが、冬場の降雪後などは先頭車にスノープラウを取り付けてMc−Mcの強力編成となることもある。なお、休日・休校日には特別な場合を除き全ての列車が単行のワンマン運転となる。現在定期の3両編成は消滅しているが、八月の西馬音内盆踊り期間中を中心とした多客期に不定期で運行されることもあるようだ。
5.車輛
 在籍車両は電車が電動車4形式5両、制御車2形式3両、除雪車が1形式1両と保線用の無蓋貨車が2両在籍している。他に無車籍の除雪車(ユキ3)が1両存在する。
 
 かつてはポールカーの天国だったが、昭和50年以降徐々に在籍車輛のパンタグラフ化が進められ、現在では電動車は全車パンタグラフ装備となっている。現在の在籍車は、横荘線から転属してきた気動車改造の制御車、クハ12形の他は全て他社からの譲受車で譲受先は福井鉄道、西武鉄道、山形交通、の三社となっているが、羽後交通が三度目のお勤めとなる車輛も多くその前歴は多彩である。電車は規模の割に多種だが、全車間接非自動制御(HL)、直通空気制動(SME)に統一されており、全ての電車が総括制御可能である。
デハ100形(101・102)
 
デハ101・デハ102
 元福井鉄道モハ131・132。昭和37・38年福井鉄道自社工場製、ノーシル・ノーヘッダーの全金属車体で窓も大きい明朗な感じの車輛であるが台車はブリル社製の中古品を履いており、足周りは近代的な車体とは裏腹に古めかしい。福井鉄道時代は主に南越線を働き場所とし、昭和56年の同線廃線後に羽後交通に移籍してきた。入線時に他車との併結に備えて制動装置をSME化、またワンマン運転対応改造も行われたが外観は福井鉄道時代と余り変わっていない。

 移籍後は現在に至るまで主力の座に君臨。特に日中はこの二両の独壇場の感があり、羽後交通といえば当車を頭に思い浮かべるファンも多いことであろう。

デハ100形車歴
福井鉄道モハ131(昭37・福井鉄道自社工場)→羽後交通デハ101(昭57)
福井鉄道モハ132(昭38・福井鉄道自社工場)→羽後交通デハ102(昭57)
デハ7形(7)

デハ7 
 前歴を辿ると昭和12年日本車輛製の西武鉄道(旧)キハ21。但し、昭和33年に台枠延長・車体新製され電車化、クハ1121となったため製造時の面影はない。西武時代は多摩湖線で活躍したが、昭和38年に電装改造のうえ羽後交通雄勝線に譲渡された。

 雄勝線入線当時は唯一蛍光灯装備・全自動ドア車で主力として活躍したが山交車入線後は、ポール集電がネックとなりワンマン化できないため予備車となった。昭和52年、日中に運行される電車は全車ワンマン化されることとなり、西武所沢工場にて集電装置をパンタに変更する工事を受けた。同時に前面窓・戸袋窓のHゴム支持化、前照灯位置の変更、窓枠のアルミサッシ化、制御装置の変更(直接制御→間接非自動制御)など各種改造を受け、登場時と大分異なる姿となった。

 昭和57年のデハ101・102入線時に電装解除されたデハ6の主電動機を装備して四個モーター化され出力強化されたものの予備車的な扱いとなり、ラッシュ時の三連廃止後は八月に行われる西馬音内盆踊り期間や冬季の降雪対策としてMc−Mcの強力編成を組む時などに時折動く程度である。

デハ7形車歴
西武鉄道(旧)(→西武農業鉄道西武鉄道(新)キハ21(昭12・日本車輛)→電車制御車化・台枠延長・車体新製クハ1121(昭33)→羽後交通デハ7(昭和38)→パンタ化・HL化(昭52)→主電動機増強(2→4)(昭57)
デハ8形(8)
 
デハ8
 元山形交通三山線モハ107。さらに前歴を遡ると昭和5年新潟鉄工所製の鶴見臨港鉄道(現JR鶴見線)のモハ102となり、一時は全国各地の私鉄で見られた買収国電の貴重な生き残りである。買収国電の中でもこの鶴見臨港鉄道100形は大きさが手頃だったためか売れ口が良かった部類で、仲間は銚子電鉄、静岡鉄道、北恵那鉄道、上毛鉄道上田丸子電鉄など各社に譲渡された。

 山形交通時代にステップを付けたり、前面をHゴム支持の二枚窓に、側面をバス窓にする大手術を受けたため、製造時の面影BW-78-25台車に僅かに留める程度で、各地に散った鶴見臨港鉄道の車輛の中では最も様変わりした車輛といえるだろう。

 昭和49年の三山線廃止と同時に羽後交通に移籍。デハ9とともに羽後交通としては初のパンタグラフ集電車となり昭和50年から開始された日中のワンマン運転時の主力車となった。全長15.5mと羽後交通の車輛としては最も大型であり、収容力も大きいことからデハ100形入線後もラッシュの輸送力列車用に重宝されている他、日中も下校時を中心に時たま運用に入る姿が見られる。

デハ8形車歴
鶴見臨港鉄道モハ102(昭5・新潟鉄工所)→改番モハ112(昭16)→鉄道省買収(→国鉄)(昭和18)→電装解除(昭和26)→改番クハ5540→山形交通モハ107(昭和30)→車体更新(昭和41?)→羽後交通モハ8(昭和50)
デハ9形(9)

デハ9
 もと山形交通モハ106。デハ8とともに昭和50年に山形交通三山線からやってきた車輛である。前歴を辿ると大正14年製の各務原鉄道の木造車に行き着く古老だが、山形交通入戦後に鋼体化され現在のバス窓を多用した車体に生まれ変わっている。入線時は主力として活躍したが、デハ100形入線後は、全長13m足らずと電動車の中では最も小型のため、第一線を退き、ラッシュ時の増結専用車となった。ラッシュ時の三連運用が無くなった現在は、冬場に除雪車の後押しをする他は西馬音内車庫で休んでいることが多い。

デハ9形車歴
各務原鉄道K1-BE1(大14・日本車輛)→名鉄モ451(昭10)→山形交通モハ106(昭23)→昭和31鋼体化→羽後交通デハ9(昭50)
クハ10形(10・11)
 
左からクハ10・クハ11
 ラッシュ時に電車に牽引されていた木造客車を置き換えるために山形交通三山線から購入した制御車で山形交通時代の旧番はクハ11・モハ105。さらに前歴を辿ると京王帝都電鉄の前身、京王電気軌道の木造車を多摩湖鉄道に譲渡後、西武鉄道時代に鋼体化したクハ1110形1112・1111となっている。両車ほとんど同じスタイルだが、クハ11のほうは山形交通時代に電動車だったことがあり、パンタグラフ取り付け台座が残っているのが外観上の特色となっている。

 入線時は唯一の制御客車だったが、雄勝線では降雪対策のためか常に電動車が先頭となるよう終点で付け替えられるため、編成の先頭に立つことは滅多になく、せっかくの運転用設備をもて余し気味である。現在は平日の朝ラッシュ時に電動車に牽かれてどちらかの車が一日交代で一往復だけするのが日課。

クハ10形車歴
京王電軌32(大10・枝光鉄工所)→多摩湖鉄道(→武蔵野鉄道西武農業鉄道西武鉄道(新))102(昭8)→昭25頃鋼体化→昭36・車体延長、三扉化→山形交通クハ11(昭40)→羽後交通クハ10(昭和50)
京王電軌31(大10・枝光鉄工所)→多摩湖鉄道(→武蔵野鉄道西武農業鉄道西武鉄道(新))101(昭8)→昭25頃鋼体化→昭36・車体延長、三扉化→山形交通モハ105U(昭40)→羽後交通クハ11(昭和50)
クハ12形(12)

クハ12
 前身は昭和32年川崎車輌製の横荘線用液体式気動車キハ3。当時流行の前面がやや傾斜した二枚窓の湘南スタイルを持つ車輛だが、動力台車側には荷台を持っていたためスタイルを崩していたため、ファンの間では田舎湘南と呼ばれていた。昭和46年の横荘線廃線時に同型のキハ2とともに雄勝線へ転属となり、エンジンを降ろして客車化された(キハ2→ホハフ7、キハ3→ホハフ8)。
 ホハフ8については昭和57年にクハ5形の廃車発生品を取り付けて制御車化され現車番となった。この時特徴ある前面の荷台は撤去されている。ホハフ7は客車のまま存置されたが、乗客減から余剰となり昭和60年に廃車となっている。
 
 当車は全長16400mmと羽後交通では最大の車輛で、その収容力を生かしてデハ8と組んで朝の西馬音内発7:20の最混雑列車に充当されることが多い。

クハ12形車歴
羽後交通キハ3(昭32・川崎車輌)ホハフ8・機関撤去、客車化(昭47)→クハ12・制御車化(昭57)
ユキ2形(2)・ユキ3形(3)

左からユキ2・ユキ3
 雪国の私鉄だけに除雪車も2両所有している。ユキ2は昭和33年に有蓋車ワ36を改造して登場したラッセル式雪掻車である。降雪時に主にデハ9に押されて出動するが、近年は雪が減り活躍の機会は少ない。ユキ3は無車籍のロータリー式雪掻車で昭和43年製。こちらはユキ2の予備的存在が強く滅多に動くことはない。
車輛緒元表
形式番号 定員 最大寸法 自重 台車 主電動機出力 制御装置 制動装置 製造年月 製造所 前所有者・備考

全長
全幅 全高
デハ101 80(36) 13840 2700 4215 22.0 ブリル27-MCB 37.5kw×4 HL SME 昭37.10 福井鉄道 元福井鉄道モハ131
デハ102 80(36) 13840 2700 4215 22.0 ブリル27-MCB 37.5kw×4 HL SME 昭38 福井鉄道 元福井鉄道モハ132
デハ7 90(36) 13460 2600 3975 23.0 ブリル76E 37.5kw×4 HL SME 昭和12 日本車輛 元西武鉄道クハ1121
デハ8 100(40) 15460 2730 4210 28.3 BW78-25 48.5kw×4 HL SME 昭5.4 新潟鉄工所 元山形交通モハ106
デハ9 80(34) 12944 2744 4206 21.5 BW42-84-MCB1 44.8kw×4 HL SME 大14.3 日本車輛 元山形交通モハ107
クハ10 100(32) 13900 2550 3708 19.0 ブリル76E-1 - - SM3 大10 枝光鉄工所 元山形交通クハ11
クハ11 100(32) 13900 2550 3825 20.0 ブリル76E-1 - - SM3 大10 枝光鉄工所 元山形交通モハ105
クハ12 110(50) 16400 2725 3752 20.5 TR29 - - SM3 昭32 川崎車輌 元横荘線キハ3・入線時ホハフ8
ユキ2 - 7620 2350 3870 8.9 - - - - 昭2 蒲田車輛 昭33・ワ36より改造
トム5・6 荷重17t 9550 2710 2205 9.25 - - - - 昭44改 協三工業
※上記の他、無車籍ながら、ロータリー式雪掻車ユキ3が存在
6.むすび
 ローカルムード溢れる小電鉄の灯がまた一つ消えることになる。欠損補助金の打ち切り、即路線廃止という決断はファンの目から見ると早すぎるような気がしてならないが、決して企業努力が足りなかったわけではなく、むしろ鉄道存続のために合理化を初め、あらゆる手段を高じた末の今回の決断といえるだろう。沿線の過疎化、少子化の進行、マイカーが一家に二台という時代の到来、もはや、一企業の努力、地方自治体の僅かな援助ではローカル私鉄の路線を維持し続けることは難しい時期に来ているのかもしれない。羽後交通雄勝線のみならず、ローカル私鉄にとってはまさに冬の時代である。

 廃線まで残された時間は僅かではあるが、これから8月には西馬音内盆踊りの開催に伴う三連運転、冬場のラッセル車の出動と、雄勝線の見どころはまだ残されている。本稿が秋田県で最後に残された小さな電車達の記録を残すために、これから雄勝線を訪れる方々のガイドとなれば幸いである。本稿執筆にあたっては西馬音内電車区の●●課長、ならびに現場の方々の暖かいご協力を得た。末筆ながら厚くお礼申し上げます。