宮城線車輛史4
●4 宮城電気鉄道時代の車輛2(宮城電気鉄道の成立)

 宮城鉄道が社名を現社名「宮城電気鉄道」に改称したのは昭和35年のこと。宮城線は、それまでも宮城電気軌道時代より一環して仙台市民から「みやでん」の愛称で親しまれてきてはいたのだが、この改名によってようやく愛称と名前が一致するようになったわけである。社名を一新した宮電は、これを期に電車の車体塗色も変更。従来チョコレート色に塗られていた在来車を急行車1300系と同じみかん色とクリームの明るいツートンカラーに改め、新生宮電を大いにアピ−ルした。この頃より多賀城、塩釜の宅地造成も手がけはじめ、増加する通勤需要に対応するため新しく通勤車
300系を投入している。

 世はまさに高度成長期を迎え、企業としての宮電も資本金の増資につぐ増資で、明るい話題にはこと欠かなかった時代ではあるが、電車の話題についていえば、地味な話に終始する。300系通勤車輛も真新しい車輛ではあるが、技術的には何ら目を引くものは採用されておらず、またステンレスカーやアルミカーの採用はいち早く行ったものの、いずれも試作的なものに留まり量産されることはなかった。また、宮城電気軌道時代の引継車や、運輸省規格型車輛、戦災復旧車といった雑多な車輛群は、昭和30年代後半から40年代にかけて急速に行われた車体更新工事の結果、300系に類似した外観に統一されてしまい、趣味的な面白さも薄れた。鳴り物入りで登場した急行専用車1300系すら、かろうじて転換クロスシートは残されたものの、三扉化、前面貫通化改造が施され昔日の面影を失ってしまった。

 この時代の宮城線は、昭和44年の陸前原ノ町から西塩釜間の複線化工事完成とそれに伴う列車の増発や、昭和46年に開始された宮城線の宮電仙台と仙台線北仙台を結ぶ仙台高速鉄道の建設開始など主に輸送力増強に関する話題が主で、車輛史的には輸送力増強というお題目の中で質より量の車輛増備を行ったのである。時節柄仕方のない面もあったのだろうが、そこに「進取の気風に富む」と言われたかつての先進的な宮電の姿はなかったのは残念なことである。

■4−1 300系(モハ301〜310・モハ311〜314・クハ351・クハ361)1960〜63年登場


300形

310形

350形(セミステンレスカー)+1000形

1000形+360形(アルミカー)
解説編 作者のつぶやき

 300系は宮城線初の本格的な新性能通勤車で昭和35から38年にかけて東洋工機・日本車輛で計16両が製作された。おおまかにモハ300形・モハ310形・クハ350形・クハ360形の四形式に分けられ、車体構造は全金属製、セミステンレス製・アルミ製と多様であるが、共通点としては、ほぼ同時代に登場した名鉄のHL系更新車によく似た雰囲気を持つスマートな車体で、片開き三扉で扉間の窓は四枚の伝統的な関東スタイルを踏襲したロングシート車という点が挙げられよう。このあと320系、330系や旧形車の更新車へと受け継がれていく新らしい宮電スタイルの基礎を築いた車輛群である。

 300形は片運転台車の電動車で主に連番の奇数車と偶数車でペアを組んでいたが、1M方式を採用しており編成をバラして一両単位での使用も可能であった。310形は増結用として使用された300形の両運転台バージョン。これら鋼製車は1300系で採用された新塗色、オレンジとクリームのツートンカラーを身にまとっていた。
 駆動装置には1210形・1300系で実績のあるWNカルダン方式を採用。制御器は一つで四個のモーターを制御する1C4M方式で、単位スイッチ・多段式のABFM(ABFM104-15EH)、主電動機はMB3028(出力75kw×4)と電装品は宮電の御用達メーカーである三菱製で固めており、保守作業の軽減を狙って在来車と極力部品の共通化を図っている。制動装置は在来車との併結運用を考慮して在来車とも併結可能でかつ将来のHSC化も視野に入れた電磁速動・中継弁つきの自動ブレーキ(ARSE)となり、経済性を考慮して発電ブレーキも備わっていない。
 この300・310形の登場により、宮城線で最後まで残っていた軌道時代以来のHL車100形・600形は鮮魚列車用に残された三両一編成を除き仙台線に転属となった。

 300形、310形に対して350形、360形はモーターを持たない制御車であるが、それぞれ車体材料にステンレス、アルミ合金を採用していたことが特筆される。路線の過半を海沿いを走る宮城線は塩害による車体の腐食に手を焼いていたため、その対策として日本車輛に協力を依頼、車体が腐食しないステンレス車体、アルミ車体の車輛を一両づつ試作し、その効果を比較することにしたのである。残念ながら350形は特許の関係からオールステンレス車体は実現せず台枠、骨組みは鋼鉄製、外板のみステンレスのセミステンレス車体としたが、360形は外板にあらかじめアルマイト処理した幅の狭い押し出し形材を採用するユニークな方法で製作されたオールアルミ車体で登場し当時の話題をさらった。350形、360形は老朽化したクハニ700形の置き換え用でもあり、車内にはカーテンによる仕切を持ち、簡易荷物車としても使用できる構造となっていた。

  

 
300系電車のモデルとなったのは名鉄のHL車(日本車輛製)です。正面なんかはほとんどそのまんまですね。オリジナリティがなくてすみません。他にも三岐の120系(東洋工機製)とか上信の200系(これも東洋工機製ですね)といった地方私鉄向けの通勤車を強く意識してデザインしました。これらに共通するのは、特徴のないのが特徴と言いましょうか、どこを走っていてもおかしくない、自己主張のない素直なデザインです。こういう電車が私の好みなのです。
 電装品ですが、三菱製のMB3028形モーター(出力75kw)は多分評判が良かったのでしょう。京成、近鉄、西鉄など標準軌の各私鉄に採用されていますので、それらを参考に設定してみました。

 それだけでは面白くないので、ステンレスやアルミの試作車も登場させてみました。宮電は路線のかなりの部分を海沿いに走っていたため、塩害による車体腐食にはかなり手を焼いたはず。そこで当時メーカーとしてもステンレスやアルミの優秀性を実証するため積極的に売り込みをかけたはずです。日本車輛は岳南鉄道1100形(ステンレスカー)や北陸鉄道6010形(アルミカー)などに見られるように中小私鉄を積極的に利用?して自社技術の向上を図っていたようで宮電もその毒牙にかかった可能性は高いとみました。一応アルミ車360形は北陸鉄道6010形と同じ技術を利用したという設定にしてあり、車体表現もそれらしく見えるよう工夫したつもりですが如何でしょうか?

■4−2 1100形更新(サハ1101〜1108・クハ1109〜1112)1962〜66年登場
   
サハ1100形(旧省電50系更新車)

    
サハ1100形(旧省電30・31系更新車)


クハ1100形(旧1150形更新車)
解説編 作者のつぶやき

 旧型車の中でも戦災復旧車の1100形、1150形は特に車体の老朽化が激しく、昭和30年代以降の新製車が増えるにつれて著しく見劣りするようになり、旅客サービス上好ましくないため、昭和37年より300系と類似の全金属車体に載せ換え更新をすることとなった。更新対象となったのは1100形8両、1150形4両の計12両で更新工事は東洋工機及び自社宮城野工場で施工された。連結両数の増加により、運転台付き車輛はそれほど必要ではなく、定員の増加を優先したため、更新時に旧1100形は運転台を撤去してサハ化されサハ1101〜1109となり、運転台付きで出場したのは旧1150形を改番編入したクハ1109〜1112の4両のみとなっている。工事内容は種車の台枠以下をほぼそのまま利用し車体を新製するもので、ベンチレーターやヘッドライト、内装品の一部など艤装類は種車より流用、また電動発電機も種車の直流MGを流用、運転台機器も従来のままで速度計がないなど、車体は新しくなったものの新製車に較べるとかなりレベルダウンした仕上がりになってしまったのは否めない。なお、台車は当初種車より流用したTR11を履いていたが、後に大阪市営地下鉄より購入したKS63に履き替えている。

 1100形は一見すべて同じに見えるが、種車の台枠をほぼ忠実に利用したため、その種車によって全長や車軸間距離が各車まちまちで、細かく調べていくと興味はつきない。サハ1100形のうちサハ1101・1102・1107は旧省電50系鋼体化車がそのルーツであり全長は16800mm、サハ1103〜1106・1108は旧省電30・31系が種車となったため全長は17000mmで、車軸間距離は11000mmとなっている。妻面は切妻。
 一方クハ1100形は旧帝都電鉄の復旧車を更新したため車体はサハ1100形よりやや長く全長17530mm、車軸間距離は11070mmで妻面は丸妻である。


 昭和30年代末から40年代にかけては、大正末期から昭和初期にかけて登場した大手私鉄の初期鋼製車の多くが引退の時期を迎えています。ただ、国鉄の旧形国電と違い、そのまま廃車になったものは少なく、モーターや台車、その他の電装品を再利用して車体のみを新しくした、いわゆる車体更新車として生まれ変わっているものが多いようです。東武の3000系や名鉄の3700系などはその代表形式ですね。車体は新しくても、足まわりに目を転じれば釣り合い梁台車に釣掛モーターというアンバランスさが、更新車の醍醐味というか魅力でしょう。
 
 我が宮電にも、このような更新車を登場させてみることにしました。その第一弾が1100形(更新)です。これらの種車は戦災復旧車ですが、この手の復旧車は京成(2000形)にしても東急(3600形)にしても他車に先駆けて比較的早期に車体を載せ換えていますので、宮電でも真っ先に更新対象に選ばれたはずです。台枠流用としたので、更新後に似たような車体になっても各車種車の台枠に影響されて微妙に全長が違うのがミソ。
■4−3 800形更新車(801・804〜806)1966・67年登場
 
モハ800形
解説編 作者のつぶやき
 
 1100形・1150形の更新に続き、全長16m強と宮城線の営業用車の中では最も小型で、しかも二扉のため、ラッシュ時の使用に支障をきたしていた800形の更新工事に着手することになり、まず昭和41年に801・804の2両が車体更新された。更新工事は1100形と同様に東洋工機で施工。この車体更新の結果全金属製の三扉車体に生まれ変わったが、種車の台枠以下を再用したため、車体長は16350mmで窓配置はdD4D4Ddとやや寸詰まりの車体となった。またこの形式のみラッシュ対策として客用扉の幅を1200mmと、在来車より100mm拡幅している。続いて翌昭和42年に805・806の2両が更新。当初計画では引き続き残り3両についても昭和43年度中に同様の更新工事が行われるはずであったが、陸前原ノ町〜西塩釜間の複線化工事とそれに伴う車輛増備が優先されたため800形の更新工事は中断。結局800形の残り3両は後述のように主要機器のみを流用して18m級の車体を新製する方法で更新され、1500形に生まれ変わることになった。

 昭和50年、一部車輛が1500形に更新されたため飛び番になっていた車番をつめてモハ801〜804に改番。同時に1500形の一部と台車交換を実施、800形はゲルリッツ式のFS103からD-16に台車を履き替えた。

 800形は両運転台付きのため更新後は石巻方の区間運用やラッシュ時の増結に主に使われていたが、昭和51年にそれまで鮮魚列車に使用されていた100形が引退することになり、その代わりにモハ801・802がステンレス試作車クハ351を間に挟んで三連でこの運用に充当されることとなった。


 どの鉄道会社にも必ず1両や2両、異端車というものが存在するものです。それらは試作的や役割を担わされた車輛だったり、大量に増備された新車の狭間で華開かなかった小グループだったりするわけです。他車とは使い勝手が異なるため扱いに手を焼き、かといって中途半端に新しいため、廃車にすることもできず、そんな困った車輛達のことです。

 宮電でも800形(更新)という困ったちゃんを設定してみました。車体更新工事が台枠流用から台枠新製という流れに向かうはざまで4両だけ登場、車体は新しくなったものの旧台枠を流用したため車体幅は他社より100mm狭く、車体長も宮電で最も短い16m級となってしまった半端者です。

 この半端者が生きる道として設定したのが鮮魚列車です。沿線に塩釜という漁港を持っているのですから、塩釜港でとれた魚を仙台に運ぶかつぎ屋さんをのせた列車があってもおかしくないでしょう。こういう列車には廃車寸前の老朽車輛や半端者が充当されると相場が決まっています。
■4−4 320系(321〜327・371〜377)1968〜69年登場

320系
解説編 作者のつぶやき
 
 昭和30年代後半以降におこなった宮城線沿線の宅地開発のかいあって、昭和40年代に入ると輸送人員が急速に伸び始めた。しかし複線区間は依然として宮電仙台〜陸前原ノ町間のわずかな区間のみで、それ以外は単線のままで列車の増発はままならず、朝のラッシュ時には最大5両編成まで登場して乗客を捌いていたが、それでも輸送力は限界に達していた。このためさらなる列車増発を図るため陸前原ノ町〜西塩釜間を複線化することになる。複線化工事の完成は昭和44年9月。複線化の完成と同時にダイヤ改正され朝のラッシュ時を中心に列車が増発された。320系はこの時に輸送力増強用として7編成14両が一挙に登場した300系のモデルチェンジ車である。車輛製作は300系同様に日本車輛が請け負った。

 300系車輛との相違点として、短期間で14両もの車輛を製作するために、全電動車方式をやめ、Mc-Tcの2両固定編成とし、製造費の低減を図ったことがあげられる。すなわち電動機出力は300系の75kw×4に対して320系では110kw×4と約1.5倍電動車の出力が増強された。また、電動発電機や空気圧縮機などの補助装置はTc車クハ370形に装架され、機器の分散・集約化を行っている。このため、320形と370形は完全に2両1ユニットの固定編成となり、切り離すことができず、両車は通常棒連結器で連結されている。電装品類は宮電の伝統に則って三菱製を使用。主制御器は電空単位スイッチ式のABFM-154-15EH、主電動機はWNカルダン方式のMB3021、台車は電動車320形はFS365、制御車370形はFS065、制動装置はARSEである。
 
 電装品関係が300系とは大幅に異なるのに対して車体は300系とほぼ同じと言ってよい。300系との目立つ相違点は300系が連結面が丸妻になっているのに対して320系では連結面側の妻板が切妻になっていることぐらいである。


 初期の高性能カルダン駆動車は75kw程度の小形モーターを装備した全電動車編成が主流でした。しかし、技術の進歩とともに、小形モーターを大出力にすることが可能となり、全電動車編成から少々加速力が落ちたとしても経済性に重点を置いたM-T編成へと主流が移っていったわけです。国電の101系から103系への発展過程はまさにこれですし、大手私鉄においても近鉄の通勤車や東武2000系から8000系、東急7000系から8000系、小田急2200系から2400系・2600系などへの発展過程で同様の動きを見ることができます。

 我が宮電でも、同様の流れを表現したくて考えたのがこの320系で、300系に対する出力強化形として設定してみました。電装品は標準軌を採用している私鉄で三菱製の同時代、同程度の出力かつWN駆動の電動機を持つ1M車ということで条件を絞り込んだ結果、京成の210系を参考にしています。
  
■4−5 1500形(1501〜1519)1969〜1974年登場

1500形
解説編 作者のつぶやき

 1500形は宮城電気軌道時代に製作された800形やその増備車810形、終戦直後に登場した運輸省規格型電車1000形などの電装品等の主要機器を流用して日本車輛と自社宮城野工場で車体を新製した車輛で昭和44年から昭和49年にかけて19両が登場している。

 戦前から戦後にかけて製作、或いは譲渡を受けた旧形車のうち老朽化の激しい戦災復旧車1100形、1150形と800形の一部については昭和37〜41年の間に車体を新製して全金属製車体に生まれ変わったが、800形の残りと810形、1000形は、前面貫通幌の取り付け、窓枠のアルミサッシ化、正面窓や戸袋窓のHゴム化、客用扉を木製から鋼製に変更などといった、若干の近代化改装を受けてはいたもののオリジナルの半鋼製車体のままで残されていた。しかし、昭和44年に宮城線と仙台線を地下線で結ぶ仙台高速鉄道の建設が決定。このため宮城線在籍車全車について地下鉄乗り入れのために不燃化対策を施さなければならなくなった。残存する半鋼車は1200形・1210形を除き、車体を改装するよりも車体を新製したほうがコスト的には安上がりになるという判断から、電装品・台車などの主要機器を流用して320形と同一車体を新製、これら更新車は更新時に1500形にまとめられた。

 前述のように1500形は交流MGを新たに新製した以外は主要機器のほとんどが旧品再用となっている。その結果、台車は更新当初はD-16(旧810形)、D-18(旧1000形)、FS103(旧800形)の三種類が存在したが、電装品については全車主制御器はCB10-282、主電動機はMB146(93.3kw×4)に統一されていたため、種車による性能の差はない。標準化思想が後年の更新時に役立ったわけである。台車についても後に800形との台車交換の結果D-18・FS103の二種に揃えられた。1500形の車体更新は年間4両のペースで進められ、昭和49年6月のモハ1010の更新をもって更新工事は終了。翌昭和50年に最後まで残っていた営業用半鋼製車輛クハ1160形が廃車され、仙台高速鉄道地下線開業を前に宮電宮城線の車輛陣は全金車で統一された。


 もうバレていると思いますが、私は更新車大好き人間です。体は失っても魂はひっそり生き続けているというところに車歴好きとしてはドラマのようなものを感じてしまうわけなんですね。電車を擬人化するのは危ないのでこのへんでやめとこ・・・。

 さてこの更新車1500形は、今までの更新車とは異なり台枠を流用するのをやめています。古い台枠を土台にして新しい車体を組み上げるのは木造車の鋼体化時代からよく使われた手法なのですが、コスト的には安そうでいて実際は結構手間のかかる作業らしく、実際には大手私鉄の車体更新車の主流はこの1500形のように車体を完全に新製してしまい、そのハコに台車やモーターなどの古い部品を取り付けるというものになっています。

 宮電では路線の地下化が決定し、急速に在来車の更新工事を進めなければいけなかった関係で今までのように古い台枠の上にちまちま新しい車体を組み上げた更新車を年に1〜2両作るのでは、更新工事が間に合わなかったため、車体更新の手法を変えたという設定です。
●付録
(宮城電気軌道車輛緒元表)昭和49年5月現在(製作中)

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