仙台線車輛史2
●1 全線復旧時の車輛
 
 仙台線北仙台〜陸前吉岡間は昭和25年に復旧されたものの、通称古川線と呼ばれる陸前吉岡以北の区間については採算面から復旧は後回しとされた。一時は陸前吉岡〜加美中新田間の廃止も検討されたが、昭和26年7月にようやく復旧、同時にそれまで軽便線で営業を行っていた加美中新田〜中新田間の改軌・電化工事も完成し、昭和23年9月の運休から実に2年10ヶ月振りに北仙台〜中新田間全線が復旧した。

 全線復旧時には新造車モハ2420形3両が用意されたが、翌年以降、増え続ける旅客に応じて増備した電車は全て国鉄・富士山麓鉄道・東武鉄道などから譲り受けた中古車であった。昭和30年4月の時点では仙台線在籍車20両に対してその形式数は11に及び、しかもその雑多な車輛のほとんどは他社からの中古品とあっては、当時すでに車輛の新造を開始していた宮城線との格差は開く一方であった。

■2−1 モハ2420形(2420〜2422)  1951年登場 

モハ2420形
モハ2420(1951年新造)蔵王高速電鉄注文流れ?
モハ2421(1951年新造)蔵王高速電鉄注文流れ?
モハ2422(1951年新造)蔵王高速電鉄注文流れ?
解説編 作者のつぶやき
 
 2420形は昭和26年(1951年)7月の仙台線吉岡(現陸前吉岡)〜加美中新田間の復旧時に増備された日立製作所笠戸工場製の車体長15mの二扉車で、車体は同時期の日立製作所製の十和田観光電鉄2400形とよく似ている。日立製の電車は宮電では非常に珍しく、80年に及ぶ宮電車輛史を紐解いても、今ところこの2420形が唯一の存在である。

 あくまでも噂の域を出ない話ではあるが、この2420形実は宮城鉄道が発注者ではなく、上山〜山形間と蔵王方面を結ぶ電気鉄道として計画された「蔵王高速電鉄」(未開業)の電車の注文流れではないかと言われている。実際、日立製作所に残されている「蔵王高速電鉄」の電車図面と宮城鉄道2420形は寸法的には一致している。電車は路線開業に先駆けて完成したものの、その後会社は解散してしまい行き場の無くなった電車を、宮城鉄道が日立製作所から安く買い上げた、真相はそんなところではないだろうか?

 電装品は当時の仙台線車輛としては異系で主制御器は日立製の電動カム軸多段式自動加速制御器(MMC-H-10)、主電動機はやはり日立製のHS266(90kw×4)を装備しており、当時の仙台線で多数派をなすHL方式の制御器を持つ車輛との混結はできず、主に日中の単行運転に使われた。また当時の仙台線で最大出力車だったため貨物混合列車にもよく使用されていた。


 筆者の創作する「宮城電気鉄道2002」に登場する車輛は譲渡車両については、基本的には実際に廃車解体となった(廃車後他社に譲渡されていない)車輛を使用しなくてはならないという脳内ルールが存在しているのですが唯一の例外がこの2420形です。

 この車輛、蔵王高速電鉄の注文流れというのは史実通りなのですが、実車は実際には岡山県の備南電鉄(現存せず)が購入しています。備南電鉄から高松琴平電鉄に譲渡され、今なお1両が長尾線で現役です。

 しかし、もしも宮城鉄道が存在したとしたら、注文流れ品といえども遠く岡山県に旅立つよりは、隣県の鉄道に来たほうが自然ではないでしょうか?蔵王高速電鉄の電車が注文流れしたという噂をいち早くかぎつけてたのが、宮城鉄道だったわけです。
 この世界の備南電鉄はかわいそうですが阪神や山陽あたりの中古車で我慢してもらいましょう。
 
■2−2 クハニ2480形(2480) 1952年登場

クハニ2480形
●伊那電気鉄道サハニフ402(1929)→鉄道省サハニフ402(1943)→国鉄サハニフ402(1946)→宮城鉄道クハニ2480(1952)
解説編 作者のつぶやき

 前歴を辿れば、現在のJR飯田線の前身の一つ、伊那電気鉄道のサハニフ400形402である。昭和4年汽車製造製の16m級の荷物室付き鋼製付随車で伊那電気鉄道としては最後の新車であった。昭和18年に鉄道省が伊那電気鉄道を買収して飯田線となったあとも古巣を離れることなく飯田線を走り続け、昭和27年廃車となったものを宮城鉄道が購入したものである。この時仲間のうち2両は同じ東北の弘南鉄道に引き取られている。
 入線に際して仙台線七北田工場にて荷物室側に運転台を取り付け制御車化された。また、この時主幹制御器は前述の2420形と同じMMC対応のものを取り付けており、2420形と組成できる唯一のクハとして重宝された。

 
 この伊那電サハニフ402、史実上の廃車時期は昭和32年ですが、この宮電架空史上では昭和27年の廃車としています。このズレは何かといいますと、史実では実車はこの昭和27年に飯田線から仙石線に転属になっているのですね。架空史上では国鉄仙石線は存在しないわけですから、廃車時期を前倒しにしてしまおうと考えたわけです。
 サハニフの兄弟は弘南鉄道に譲渡されて昭和末期まで働いていましたのでご存知の方も多いでしょう。

■2−3 モハ2430形(2430) 1954年登場

モハ2430形
富士山麓モ3(1929)→車体新造、旧車体宮城鉄道へ(1953)→●宮城鉄道モハ2430(1954)
解説編 作者のつぶやき
 
 2430形は名義上は昭和29年自社製ということになっているが、それにしては腰高な野暮ったいデザインの二扉車である。それもそのはず、実際は富士山麓鉄道(現富士急行)が1929年の開業時に用意した日本車輌製のモ1形電車の1953年の車体更新時に発生した廃棄車体を購入し七北田工場で手持ちの機器(主制御器HL、主電動機MT4・出力85kw×4、台車D-16)を取り付け電装したものなのだ。
 電動機は国鉄より購入したMT4を装備しており、入線当時、仙台線車輛としては高出力であったため、制御車と二両編成、三両編成を組んだり、時には機関車代用として貨車を牽引したり、冬期にはスノープラウを取り付けて除雪車となったりと幅広く活躍した。
 
 
 昭和20年代に廃車になった鋼製車というのは数少なく元ネタ探しには苦労します。この2430形の元ネタ富士山麓1形は数少ない昭和20年代に廃車となった鋼製車です。1形は1929年に5両(1〜5)が製造されましたが、昭和27〜28年にかけて新製車体に載せ換えて500形に生まれ変わっています。廃棄された旧車体のうち1両は上田丸子電鉄にわたっていますが(上田丸子クハ251→モハ4257)残り4両分はどうも解体されてしまったようです。モハ2430は、この実際には再起することのなかった旧車体を活用したという設定です。

■2−4 サハ2490形(2490) 1954年登場

サハ2490形
●総武鉄道コハフ501(1942)→東武鉄道コハフ200(1944)→宮城鉄道サハ2490(1954)
解説編 作者のつぶやき

 公式的には昭和17年日本鉄道自動車製の総武鉄道(現東武野田線)コハフ501が前歴とされているが、どうやら前科があるらしく、その台枠の出自はなんと日本で最初のボギー客車(1875年英国製、のちのコハ6500形)に遡ることができるらしい。日本最古のボギー客車コハ6500形の一部は総武鉄道に払い下げられ、車体を撤去して貨車(長物車)として使用されていたが、昭和17年にコハフ500形が製造された際にはどうも、この貨車の台枠が流用されたようなのである。

 台枠はこのように怪しげなものを再用していたが、車体は窓配置1D4D4D1の平凡な電車形の鋼製車体で、客車に分類されてはいるが、実際には電車に牽かれて電車付随車のように使われていたという。
 総武鉄道が東武鉄道に吸収合併されるとコハフ500形はそのまま東武鉄道に引き継がれコハフ200形に改番。熊谷線を最後に昭和29年3月に廃車され、宮城鉄道が購入している。

 宮城鉄道では台車を省形のTR10に履き替えた以外は大した改造もなされずサハ2490形として竣工。竣工当時は仙台線で唯一のサハであった。仙台線車輛中最も小型で入線当時より朝のラッシュ時に七北田〜北仙台間を一往復する仙台線唯一の四連運用に使用される以外はほとんど動かず、後に車輛の大型化が進むと徐々に活躍の場を失い昭和30年代後半には廃車されている。
 
 
 日本鉄道自動車は戦中〜戦後にかけて得体の知れない木造車の台枠を利用して怪しげな新車を製作していました。この総武鉄道コハフ500形もその一つです。外観は一見まともそうな三扉の電車形客車ですが、台枠に目を転じるとトラス棒付きの古めかしいものを使用しています。この台枠の出自ですが、日本最古のボギー客車のものというから驚きです。
 
 このコハフ500転じて東武コハフ200形ですが、廃車時期が早いせいかロクな資料がなく作図に苦労しました。RF83年9月号の東武熊谷線ショートヒストリーの中に廃車後台車を外されてダルマさん状態になり西新井電車区の詰所として使用されていた頃の写真が掲載されていました。私が知る限りでは、この写真がコハフ200形唯一の外観写真です。この写真と台枠の流用元であるコハ6500形の図面をもとに作図してみましたが、いかがでしょうか?
 
●付録
1(宮城鉄道仙台線車輛緒元表)昭和30年4月現在(製作中)

仙台線車輛史3へ(製作中)