廃線跡は夢の素(その1)路面電車で温泉へ


2003.4.26 中央図書館前

 昭和40年代は札幌に限らず全国的に路面電車受難の時代でした。札幌では昭和46年〜49年にかけて全体の三分の二にあたる路線が廃線になっていますが、これはまだマシなほうで、大阪・名古屋・神戸・横浜・東京・京都・福岡・仙台・北九州など広島以外の政令指定都市では、昭和40〜50年代前半にかけてほとんどの路線が姿を消しています(※注1)。路面電車の衰退の原因については、自家用車の増加したことによる利用者の減少、道路渋滞を引き起こす厄介者扱いされたこと等いろいろ挙げられますが、そのうちの一つに昭和30〜40年代にかけての市域の急激な拡大(スプロール化)に従来の旧市街のみをネットしていた路面電車では対応できなくなったという意見があります。大半の都市では拡大した市域に対応するように郊外から旧市街への新規路線に地下鉄を建設し、旧来の路面電車にとって代わったわけですが、その一方、郊外から市内へ直通する路線を持っていた路面電車は生き残ることができました。それが、現在政令指定都市の中で唯一路面電車が市内の基幹交通となっている広島です。

 広島を走る路面電車は、札幌のように市営ではなく民営で広島電鉄(以下広電)というのですが、この広電、市内線の他に宮島線という郊外線を持っていて、広島市内とベッドタウンが直接路面電車で結ばれています。しかもこの宮島線は道路と分離された専用軌道となっており、車に邪魔されることなくスイスイ走ることができます。広電の路面電車が全国の政令指定都市の中で唯一例外的に生き残ることができたのは、それなりの理由があったわけです。

 では翻って我が札幌はどうでしょう。札幌市電は、その全盛時代において、いわゆる旧市街地はくまなくネットしていましたが、広電宮島線のような郊外線はほとんどありませんでした。唯一、札幌駅前から札沼線の新琴似駅前まで伸びていた「鉄北線」は郊外線と言えなくもないですが、これとて車と一緒に道路を走る併用軌道線で、速達性に難があるばかりでなく、大雪の時には動けなくなってしまいます。結局札幌では札幌オリンピックが直接の引き金となって、車と雪に邪魔されない交通機関、地下鉄が市電にとって代わってしまったわけです。

 地下鉄になって便利になったことはいっぱいあります。スピードは早くなりました。雪で運休することもありません。でも失ったものも多いのです。地下鉄は旧市街を縦横無尽に走りまわっていた市電の路線を完全にカバーしきることはできませんでした。地下鉄の開業で新しく恩恵を受けた地域ももちろん多いのですが、逆に苗穂地区からは市電が消え、ついに地下鉄が走ることはありませんでした。市電に代わって地下鉄が新しく開通した地域でも、従来あった最寄りの電停に較べ、地下鉄の駅がかなり遠くなった場合も多かったでしょう。お年寄りは地下鉄のホームに出るまでの階段の上り下りが大変です。一番の問題は金。地下鉄を建設するのには莫大なお金がかかります。まあ、投資に見合う分お客さんが乗ってくれればなんの問題もないわけですが、札幌の場合はそうはなりませんでした。黒字なのは一番最初に開通した「南北線」だけ、「東西線」も「東豊線」も赤字です。「東豊線」に至ってはたった全国的にも珍しいたった4両編成の電車に日中はいったい何人乗っているのでしょうか?赤字額も年々減っているのであればまだ救いようがありますが、年々増えています。民間であればとっくに破綻しているでしょう。

 こんな地下鉄の惨状を見るにつけ、ちょっと市電の廃線は性急だったかなと思います。札幌の市電には郊外線にあたる路線ありませんでしたが、実は若干の改良で市電網に組み込める廃線がありました。それが、これから紹介する千歳線(旧線)と定山渓鉄道なのです。もしもこれらの路線が改良され市電が走るようになっていたら、今でも市電は札幌市内を縦横に走っていたでしょうし、もちろん赤字に悩むことはなかったはずです。

 

 まずは上の地図をご覧下さい。全盛期の札幌の市電網と二つの廃線を図示したものです。この二つの廃線を若干の新規路線で市電網とうまくつなぎあわせれば(具体的には市電「すすきの」〜定鉄「澄川」・市電「一条橋」〜定鉄及び千歳線旧線「東札幌」)、現在の地下鉄網(参考までに2003年現在の地下鉄路線はこちら)を八割方カバーできてしまい、ついでに定山渓への温泉行き電車ができてしまうというオマケつきです。しかも廃線時期も千歳線旧線は昭和48年、定山渓鉄道については昭和44年と札幌オリンピック開催決定(昭和45年)、地下鉄南北線「真駒内〜北24条」間開業(昭和46年)とほぼ一致しています。もしも札幌オリンピックが開催されず、地下鉄計画も大幅に縮小されたとしたらこれらの路線と市電網を生かす形で、札幌市内の交通は整備されたのではないかと思うわけです。

 100万都市札幌(昭和45年に人口100万突破)の市内に廃線が存在すること自体驚きなのですが、この廃線、両方とも「いわく付き」であります。まず、札幌の奥座敷、定山渓温泉まで湯治客を運んでいた温泉電車「じょうてつ」こと定山渓鉄道ですが道警から「幹線道路との交差部分を立体化せよ」との無理難題を押しつけられたあげく(ターミナルが東札幌・苗穂といまいち立地が悪く、モータリゼーションの進行による乗客減に苦しんでいた定鉄にそんな余力はない)地下鉄計画のあった札幌市に敷地を買い取ってもらい早々(昭和44年10月31日限り)に鉄道業を廃業してしまいました。今の地下鉄南北線の地上部分(南平岸〜真駒内)は定鉄の廃線跡を流用したものというのは有名な話。札幌市は実際には延長を見越して「藤の沢」までの敷地を買い取っていたらしいのですが陽の目を見たのは「緑ヶ丘(現地下鉄真駒内)」まででした。
 千歳線旧線のほうは、輸送量の増加に対応するための複線化工事の際に幹線道路を横断しているため踏切障害による交通渋滞を引き起こし、また遮断機のない踏切が連続していて危険な区間だった旧線(苗穂・白石〜月寒〜大谷地〜上野幌間)を放棄し、函館本線と平行する新線に切り替えたことによる廃線でした。ただ昭和48年9月9日の旅客取り扱い廃止後も貨物専用線として「東札幌から月寒」間は昭和51年10月1日まで、東札幌〜白石間は実に昭和61年11月1日まで使用されていました。

 さて、いよいよIFの話になります。もしも地下鉄計画が縮小されていたとしたら札幌市電と定鉄、千歳線旧線はどのような歴史を歩んだかを妄想するわけです。
 史実では昭和44年に廃線になった定鉄ですが、この世界では札幌オリンピックは昭和47年には開催されず、よって地下鉄の整備計画も縮小されているため、地下鉄南北に敷地を譲ることなく存続しています。地下鉄がなかった場合でも、その代替案として札幌市電の整備計画が史実の地下鉄整備計画に概ね沿う形で進められると過程すると、まず定鉄線の南平岸(新駅)〜緑ヶ丘(現真駒内)間の複線化・高架化と定鉄南平岸と市電すすきのを結びつける短絡線の工事から始まると思われます。
 このあとの展開は筆者の妄想が激しすぎて言葉では説明しにくいため、図にしていくことにします。順を追ってご覧下さい。

●平岸付近の路線の改廃(1968年〜1976年) 
その1(〜1968年) その2(1969年) その3(1970年)
 市電と定鉄接続以前の平岸、澄川付近です。市電とは豊平でのみ接続していました。豊平で市電に乗り入れて中心部に向かうルートも検討されましたが、遠回りになってしまいます。そこで、新駅(南平岸)を設けて、そこから地下線で市電すすきのに向かうルートが計画されました。
 昭和44年(1969年)定鉄は計画通り新駅「南平岸」を設置(史実での地下鉄南北線霊園前→南平岸と同位置)。

 一方市電西四丁目線が道路併用軌道にて中島公園入口まで延長。従来すすきの止まりだった市電7系統(新琴似駅前→すすきの)が中島公園入口まで延長されました。
 昭和45年(1970年)定鉄側は札幌市交通局との共同事業で高架化・複線化工事を開始。札幌市交通局は「中島公園入口」から「南平岸」に至る地下線の建設を開始しました。
その4(1971年12月) その5(1972年) その6(1973年〜1976年)
 昭和46年(1971年)12月東京以北では初の地下鉄が中島公園入口〜平岸間で開通。市電7系統(新琴似駅前→中島公園入口)が平岸まで延長されました。

 また定鉄は上り線の高架化工事が終わり、南平岸〜真駒内間が単線の高架新線に切り替え、引き続き下り線の高架化工事に着手しています。

 高架化に伴い「慈恵学園」を「自衛隊前」に移設改称。「真駒内(旧)」・「緑ヶ丘」を統合。「真駒内(新)」を設置しました。
 昭和47年(1972年)6月札幌市交通局の平岸〜南平岸間が開通。定鉄南平岸〜真駒内(新)間の高架・複線化が完成。定鉄は架線電圧を札幌市交通局と同じ直流600Vに降圧して、札幌駅前〜真駒内(新)間で相互直通運転を開始しました。乗り入れに際して、札幌市交通局、定鉄とも新形の三車体連接の電車を新調しています。

 この時点で定鉄「南平岸〜豊平〜東札幌」間は支線化されました。
昭和48年(1973年)9月の国鉄千歳線の新線切り替えを期に定鉄は支線となっていた「南平岸〜豊平〜東札幌間を札幌市交通局に移譲。この区間は市電路線に組み込まれることになりました。

 昭和51年(1976年)の札幌冬季オリンピック開催時に地下区間が北24条まで延長されています。これに伴い相互乗り入れ区間は「さっぽろ(地下)〜真駒内」間に変更されました。この時点で、北24条〜さっぽろ〜南平岸間は全線が専用軌道(地下線)化され、三車体連接車を二本つなげた6両編成での運行が可能となっています。
 
 また同時に中島公園内を貫通する市電中島線(中島公園入口〜行啓通)が開通。市電8系統はすすきの〜行啓通間を交通信号の多かった山鼻線経由から中島線経由にルート変更されました。これによって市電の高速化が図られ、残された山鼻線すすきの〜行啓通間は廃線となりました。
その7(現在)
 時は移って2003年現在の平岸周辺の路線図です。南北線は昭和55年(1980年)に新琴似までが全通しています。また、定鉄線は市域の拡大によって、複線区間が下藤野まで延長されています。それに伴い札幌市交通局の電車は下藤野まで乗り入れるようになりました。
 下藤野以降定山渓温泉までの路線は一時観光バスに押されて廃線の噂も出ていましたが、近年は定山渓温泉の各ホテル・旅館とタイアップしたお座敷送迎電車が大好評です。札幌市民の間では秋には電車に乗って観楓会(注2)。これ常識です。

 平成に入ってからは新琴似から石狩市方面への新線が開通してますます便利になっていますが、朝夕の南北線の混雑は激しくなる一方で、混雑緩和のためのバイパス路線が計画されているようです。

 
 さて、定鉄の廃線絡みの妄想はここで終了。続きまして旧千歳線絡みの妄想いってみましょう→その2へ