宮城線車輛史1 |
●1 宮城電気軌道時代の車輛 |
現在の宮電宮城線の母体となった宮城電気軌道は、その会社名からも分かるように開業当初は法規上は軌道法準拠の路面電車であった。ただ同じように軌道法準拠で開業した在阪の各私鉄と同様、開業当初よりアメリカの都市間高速鉄道、いわゆるインターアーバンを模範としたため、初期の電車はヘッドライトは下部に、客用扉は車体両端に配置、併用軌道上での乗降に便利なようにステップ付き、車体前面には救助網付きと、どことなく路面電車の面影を残したスタイルとなっていはいるものの、高床式の大形車体、パンタグラフ装備、ウエスチングハウス社製の間接式手動加速制御器の採用と、当時の本格的電車に比べてもなんら遜色のない外観・性能を誇っていた。
宮城電軌が在阪の各私鉄と異なるのは、インターアーバンのシステムのみならず、日本の電車では他に類を見ない前面丸窓の特異な風貌、優美な飾り窓の採用など、電車そのものにまでインターアーバンの本場アメリカの影響を強く受けている点である。開業当初に用意したデテロハ100形は、プルマン社製のアメリカからの輸入電車であり、その後の日本製の増備車も100形の影響を受けたアメリカンスタイルとなっており、いわゆる「宮軌スタイル」を形成している。
その後、併用軌道区間の専用軌道化とともに、年々路面電車色は薄れていったが、昭和12年製の800形でははじめてステップをなくした完全な郊外電車の形態となり、以後この800形のスタイルが戦後につながる新宮電スタイルの基本となった。800形の登場と前後して全線専用軌道化に伴う車輛限界拡幅が行われたためより大型の車輛の入線も可能となった。このため昭和13年には輸送力増強用に鉄道省より中古電車1両を投入している。
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■1−1 デテロハ100形(101〜104) 1925年登場 |
デテロハ100形→モロハ100形 |
解説編 |
作者のつぶやき |
大正14年(1925年)の仙台〜東塩釜間開業時に用意されたアメリカ製の鋼製電車で登場時の形式名デテロハ100形。ロサンゼルス一円に路線網を持っていたPE(パシフィックエレクトリック)の、その車体色から「レッドカー」というニックネームを持っていた郊外線用の重厚なスタイルの電車をモデルに製作された。当時の宮城電気軌道の路線規格に併せて車体幅は8フィート10インチ(2692mm)、全長50フィート(15240mm)と全長22mに及ぶ及ぶ本家レッドカーに較べると全体的に小振りなスタイルになっている。正面窓には日本では他に例を見ない丸窓を採用。これは、「サザンパシフィック鉄道」(※オークランド近郊の電車線)の電車の影響を受けたものと思われる。車体は日本初の全鋼製で、充分な車体強度が得られたためか、飾り窓付きの客用窓は当時としては非常に大きくとられているのも大きな特徴である。
電装品はウエスチングハウス社のWH540−JD6(41.0kw×4)、制御器も同社の間接式手動加速制御器(HL)、台車はボールドウィン78-25Aを使用しており、以後800形(後の200形)が登場するまで宮軌の電車は全てこの装備に統一されている。登場時には、他車と区別する意味でもあったのか、この100形だけクリーム色と黄色の明るいツートンカラーに塗り分けられ、茶色一色の他の電車に較べても非常に華やかで、特徴的な前面の丸窓もあいまって市民にはすぐに覚えられ「アメリカさん」の愛称で親しまれた。
デテロハ100形はその形式名から分かるように二等特室と三等の合造車で、二等車には豪華なソファも備え付けられており、松島観光へ向かう各界の名士達の足となったということである。 |
正面が丸窓のゴツイ電車。かつてロサンゼルス一円に路線網を持っていたPE(パシフィックエレクトリック)の電車を一言で現すとこうなります。この電車を写真で見たときのインパクトは相当なものでした。なにしろ正面窓が円形ですよ、円形。側面窓が円形や楕円の電車なら、有名な上田交通の丸窓電車モハ5250形をはじめいくつか例はありますが、正面窓が丸い電車なんて日本の電車ではちょっと記憶にありません。大体正面窓を丸くすることに何か利点はあるのでしょうか?本家アメリカでは併用軌道上での事故で窓ガラスが割れ運転手が怪我をすることを防ぐため、安全対策から窓が円くなったそうですが、当時の日本では車は少ないし、視界も悪くなりそうですし無駄なガラスの端材が出そうだし、実用的には悪いことばかりのような気がします。
ただ、実用性はともかく外観は格好良い。この一言に尽きます。宮城電気軌道の開業にあたっては、当然電車事業の先達であるアメリカにも視察に行ったと思われ、その時丸窓電車に魅せられた社長の強引な鶴の一声で宮城電軌の車輛も前面丸窓になったのかなあ、なんてサイドストーリーが頭に浮かんできたり。
調べてみるとPEの丸窓電車(プリンプ※ふとっちょというニックネームだったみたいです)は、PEのオリジナルではなく、もともとはオークランド近郊の電車で、廃線後にPEに引き取られた電車のようですね(PEへの移籍時期は丁度第二次大戦の頃のようです)。両数的にもそれほど多くなかったようです。
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■1−2 デハニ200形(201〜204)・クハ300形(301〜303) 1925〜1926年登場 |
デハニ200形→モハニ200形 |
クハ300形 |
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解説編 |
作者のつぶやき |
デハニ200形は前述の100形とともに仙台〜東塩釜間開業時に導入された車輛。蒲田車輛製の14m級木造車で、窓配置はD22222221Dと前後非対称、石巻方に小さな荷物室がついた三等と荷物合造車である。設計には100形の図面を参考にしたというが、木造車ということで小さめの窓にトラス棒付きの台枠の露出した形状で100形に比べると大分無骨な印象を受ける。それでも前面には初期宮電スタイルともいえる丸窓を配し、側窓の上部には飾り窓がつき、屋根は木造車にしては珍しくシングルルーフとなるなど同時期の木造車に比べれば、幾分かは軽快なスタイルではあった。
主制御器・主電動機・台車などの電装品関係は100形と同じものを使用しており部品の共通化を図っている。登場時は地味な茶色一色塗りであったが、昭和12年に外板に鋼板を貼り簡易鋼体化。この時他車に併せて黄色とクリームのツートンカラーに改められた。
開業当初は全車単行運転が原則だった宮軌だが、開業の翌年大正15年(1926年)には増結用の制御車クハ300形が登場。連結運転が開始された。
クハ300形は前年登場のデハニ200形の車体を基本として製作された日本車輌製の木造車で車体寸法は200形とほぼ同一。ただ、荷物室がなくなった関係で窓配置はD2222222Dと200形と若干異なる。 |
架空宮電車輛史の創造当初、オリジナルの電車は上記のデテロハ100形に留め、以後の200形から800形に至る車輛は現実のそれを踏襲することを目論んでいました。しかし、800形登場以前の現実世界の宮電の車輛はゴツゴツ角張っていて無骨。お世辞にも格好がよいとは言えませんし、アメリカンインターアーバンことデテロハ100形の存在が浮いたものになってしまいます。
せっかく架空宮電史では、宮電の前身を宮城電気軌道という軌道線に変えているのですから、車輛も現実にとらわれることなく軌道っぽい電車に変えたほうがいいかなと思ったわけです。
で、まず考えたのがこの200形・300形。正面は100形そのまんま(ただ木造車ということで台枠は露出させてみたり、屋根を深くしたりと微妙に変えてあります)。側面は何かいいモデルはないかと資料をいろいろあたった結果富山港線の前身である富岩鉄道のボ1を参考にしてみました。ボ1形は大正13年大阪鉄工所製と製作年が宮電200形と近似で、何よりその独特な日本離れしたムードに惹かれました。見る人によってはゲテモノ扱いされかねない微妙なスタイルではありますが。
電装品は基本的には史実と同じですが、台車のみブリルからボールドウィンの弓形イコライザーのものに変えています。正しい高速軌道の電車はやっぱりBW78-25というイメージがあるものですから。
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■1−3 テクハ400形(401〜402)・デテハ500形(501〜502)・デテロハ600形(601〜602)・クハニ700形(701〜702) 1927〜1928年登場 |
テクハ400形→クハ400形 |
デテハ500形→モハ500形 |
デテロハ600形→モロハ600形 |
クハニ700形 |
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解説編 |
作者のつぶやき |
400形〜700形は昭和2年4月の東塩釜〜松島公園(現宮電松島)開業時から昭和3年11月の松島公園〜石巻(現宮電石巻)開業時(全線開通)にかけて登場した鋼製の車輛群である。
車輛製作は汽車製造。窓配置はD2222222D(但し荷物合造車700形はD222D222B)、床下にはトラス棒も付き、鋼製車とはいえ木造車200・300形の面影を強く残したスタイルとなった。車輛形式はモーターなしの三等制御車400形、三等電動車500形、二等・三等の合造電動車600形、7モーターなしの制御車で三等・荷物合造車の700形と用途に応じて細かく分かれているが、車体形状、寸法は基本的に全車同一設計で、100形以来の伝統である丸窓を配した特異な正面形状や優雅な飾り窓はそのまま受け継がれている。 |
400形・500形・600形・700形ともに実在の形式です。車種も400形から順番にテサハ(史実の宮電では初期のサハはクハのことを現していたようで、実質テクハ)・デテハ・デテロハ・クハニと同じ。製造両数も各車2両づつと史実に合わせています。史実との違いはその車体デザイン。
正面はデテロハ100形を踏襲(ただし、台枠周りの処理やリベットの付き方を若干変えているので注目してね)、側面のイメージベースは200形と同じ富岩鉄道のしかしこちらは鋼製車、セミボ20形。
この100形〜700形に至る初期の宮城電気軌道の電車は正面デザインや飾り窓に共通感を出すことを心がけ、いわゆる初期宮軌スタイルというのを再現することに心がけてみましたがどうでしょうか?
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■1−4 モハ800形(801〜807) 1937〜1944年登場 |
モハ800形 |
解説編 |
作者のつぶやき |
昭和12年(1937年)から19年(1944年)までの8年間に渡って製造された宮電の前身である宮城電気軌道を代表する名車。車輛スタイルは、100形以来の路面電車の面影の残るアメリカンインターアーバンスタイルから大きくモデルチェンジ。半流線形の前面と高さ980mmという大きな客用窓を持った、当時関東型といわれた帝都電鉄100形や小田急1600形の流れを組む軽快な二扉車で、登場時は車内にセミクロスシートを装備した急行専用車として使われた。この急行、車内ではガイド嬢による観光案内・紅茶などの飲み物提供と、当時の地方私鉄としてはトップクラスのサービスを誇り、松島・野蒜方面への行楽客の足として活躍した。
800形は全長は16350mmと、800形登場以前の車輛に比べると飛び抜けて大形となった。この頃には併用軌道上の電停は線路の付け替えによりなくなったため、ステップも廃止、わずかに前面に残る排障器と車体幅2600mm(最大幅2700mm)という細身の車体に軌道時代の面影を残していた。
制御器は三菱製のHL、主電動機にもやはり三菱製のMB64C(59.0kw×4)を使用しており宮城電気軌道の電車としては初めての純国産電車でもあった。電装品は600V対応であったが、将来の1500V昇圧を見越して容易に昇圧することができるような構造にしてありこれが後の昇圧時に役に立つことになる。
昭和12年製の一次車2両(モハ801・802)は日本車輌製の電動制御客車、昭和16年(1941年)に登場した二次車2両(クハ851・852)は一次車とペアを組む制御客車で日本鉄道自動車製である。
昭和19年には日本車輌製の三次車3両(モハ803〜805)が登場。こちらも一次・二次車と同様セミクロスシート装備車として設計されたが登場時には戦局の悪化もあってロングシート車となっていた。なお三次車の登場時に二次車のクハ2両も電装されモハ806・807に改番されている。
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宮電の名車として有名な800形です。前面の排障器と車体塗色以外は電装品関係に至るまで史実の800形を忠実に再現してみました。700形までの車輛群は格好悪いという理由で史実のスタイルとは大幅に変えたくせに、自分の好きな電車は史実通りとは実に自分勝手なものですな。
一応今までの電車とは大きく異なる800形電車登場の理由付けとして、この頃(昭和12年前後)までに開業当初併用軌道だった区間が順次専用軌道化され、半路面電車から、完全な高速鉄道へ脱皮したということにしています。出自が軌道の阪神だって京阪だって京急だって、いつまでも路面電車の面影を引きずった電車を作り続けていた訳ではないのですから。
ガイド嬢による観光案内や紅茶サービスのくだりはいかにも創作っぽいですが驚くことに史実なのです。当時の在京、在阪の大手私鉄に勝るとも劣らないサービスを行っていたとは、さすが東北の雄、進取の気風に富む宮電と言われるだけのことはあります。
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■1−5 在来車の改造 1938〜1939年 |
昭和13年(1938年)、塩釜付近に最後まで残っていた併用軌道区間が線路付け替えにより専用軌道化されると、100形〜700形までの在来車は順次ホームの嵩上げによるステップの廃止、前照灯を屋根上に移設、排障器の撤去などの各種改造が行われ、宮城電気軌道開業以来のこれら半路面電車的車輛群はいくぶん郊外電車らしくなった。以下に在来車の改造後の姿を紹介しよう。 |
●100形(ステップ撤去後) |
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排障器・ステップ撤去・前照灯の移設などの改造を受けたあとの姿で、新製時とはだいぶ印象が異なる。改造時には客用扉を800形と同じ幅900mmのものに交換している。 |
●200形(改造後) |
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一連の改造を受けた在来車の中で一番姿を変えたのは木造車の200・300形であろう。200・300形は、ステップ撤去工事の際に、外板に鋼板を張る簡易鋼体化工事も併せて施行され、図のような一見鋼製車のような姿となった。車体塗色も他車と同じ明るい黄色とクリームのツートンカラーに変更されている。 |
●800形 |
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全線専用軌道化に伴い当初から郊外電車スタイルであった800形についても図のように前面排障器の撤去が行われた。 |
■1−6 モハ900形(901) 1938年登場 |
モハ900形 |
解説編 |
作者のつぶやき |
宮城電気軌道は昭和13年の全線の専用軌道化の完成とともに車輛限界の拡幅が行われ(車幅限界は当時の法規ギリギリいっぱいの2744mmとなった)これに併せて鉄道省から宮城電軌としては大型の木造車を導入することになった。入線したのは大正11年(1922年)製の旧鉄道省デハ33500→モハ1形で鉄道省時代の旧番はモハ1050。宮軌入線は昭和13年9月。800形の続番の900台、モハ900形と付番された。
入線に際して600ボルト降圧、台車の改軌(狭軌→標準軌)、制御器のHL化など電装品、下回り関係には各種改造が施されたが、車体は石巻方に半室運転台を新設して両運転台化された程度でほとんど原型のままで使用を開始した。
全長16790mmと入線時には宮軌で最大の車輛であり、その収容力を生かしてラッシュ時の仙台口で増結用として使用されていたようである。
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木造省電のスタンダード、モハ1形改め宮軌モハ900形です。ダブルルーフの電車は初めて書いたのですが、ダブルルーフの表現、なかなかうまくいったと自画自賛しております。
さて、この900形ですが、これも旧番、入線時期など史実そのままです。実際には史実では宮城電気鉄道は架線電圧1500V軌間1067mmですから、省線電車を導入するのに障害はなかったわけですが、架空宮電史では宮城電気軌道の規格を電圧600V・軌間1435mmと定めているため、導入時にはかなり改造しなくてはなりません。まあモハ1形は登場時には600V対応だったはずで、電装品についてはあまり問題にはならなそうですが、問題は台車ですね。木造省電が標準軌の私鉄に払い下げられた例ってないもんでしょうか?パっと思いつくのは昔コトデンにいた日本最後のダブルルーフ電車クハ610ですが、あれはモーター無しの制御車ですもんね。
実際には大軌や南海あたりのたまご形木造電車の廃棄車体を利用した全くの架空電車を作ったほうが自然だったかもしれません。
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■1−7 車体塗色の変更 |
宮城電軌は、戦前では珍しく鋼製車の車体塗色と黄色こクリーム色という明るいツートンカラーを用いていたが、世の中が第二次大戦に入ると、資材節約の名目で地味な木造車と同じように地味な焦げ茶色の一色塗りに変更されてしまった。また、世相も観光どころではなくなり、急行運転は廃止、輸送力増強の名のもとにデテロハ100形やデテロハ600形などの二等合造車は二等室を廃止して豪華なシャンデリアやソファも撤去。変わりに硬いロングシートを据え付けられるなど、車体色同様に暗い時代に突入していくことになる。 |
車体塗装変更後の100形(昭和17年) |