宮城線車輛史2
●2 宮城鉄道時代の車輛1(1500V昇圧まで)
 
 第二次大戦中、より効率の良い輸送体制を確立すべく各地で輸送業者の統合が進められたが、宮城電軌もその例にもれず昭和19年6月1日付で北仙台〜中新田間を結んでいた仙台鉄道との統合が行われ社名を宮城鉄道(株)と変更。旧宮城電軌の路線については宮城鉄道宮城線として新しいスタートを切ることとなった。統合以前より沿線に多くの軍事工場や軍の施設が多く存在していた宮城電軌は、輸送力の増強に迫られていたために急行運転や二等室の廃止など戦時色の強いダイヤへの変更を行っていたが、更に大戦末期の逼迫した輸送需要に対応するため、宮城鉄道成立とともに新製車両を投入することとなっていた。しかし資材が欠乏していた当時予定されていた新製車輛の納期が遅れていたために、急遽鉄道省より老朽木造客車を借り入れて電車付随車に改造したサハ950形5両を投入して急場を凌いだ。

 大戦末期、敗色が濃厚になると資材不足はいっそう顕著となった。幸いにして空襲による被害は軽微だったものの、故障した電動機の補修もままならず、電動車の半数近くが故障して代用クハとして使わざるをえなかった。そのため電動車1両で満員の乗客を乗せた3〜4両の付随車を引っ張り、仙台〜石巻間を3時間以上もかかって結んでいたという。また、割れた窓ガラスの代わりにはベニヤ板がはられ、室内灯の数も半分に減らされ、まさに満身創痍の状態で終戦を迎えることとなった。

 戦後間もない昭和21年、戦後初の新車として
クハ810が登場。この車輛は発注自体は戦中の昭和18年に行われていたものだが、前述のように資材不足で車輛の完成が間に合わず、結果的に戦後初の新車となったものである。続いて昭和23年よりモハ1000形クハ1100形が相継いで導入された。モハ1000形は新車とはいえ運輸省規格型の窓の小さな電車、クハ1100形に至っては戦災で廃車となった車輛を叩き直した車輛と戦前の最盛期にあった800形にはとても及ばない水準の車輛ではあったが、初の本格的な17m級車で戦後の輸送力増強に大きく貢献した。特に1000形は宮城線でははじめて自動加速制御を採用した車輛であり、電気機器に関してはその後の新造車の標準となった。昇圧後は在来車の一部も1000形に併せてモーターや主制御器の交換が行われている。

 宮城線の架線電圧が1500Vに昇圧されたのは昭和25年7月のこと。同時に軌道法準拠から鉄道法準拠に変更され名実ともに鉄道となった。昇圧に伴い宮城電軌時代からの引継車のうちで初期に製造された100形〜700形は、昇圧改造困難なため、一部は電化改軌なった仙台線へ転属または地方私鉄に譲渡、残りの車輛は電装解除されて制御化されるなど、小型車の整理がはじまった。

■2−1 サハ950形(951〜955) 1944〜1954年

サハ951〜954は元鉄道省の中型客車ホハ14000形

サハ955は元鉄道省のサハ19形
 入線時、すでに明かり取りの窓も埋められみすぼらしい姿であった。  サハ955はダブルルーフに明かり取りの窓や水雷形ベンチレーターも残り比較的原型を留めていた。
解説編 作者のつぶやき

 第二次大戦も末期になると、榴ヶ岡の陸軍基地・苦竹、多賀城の軍事工場、矢本の飛行場など沿線に重要な軍事施設が点在する宮城線の輸送量は日増しに増加していった。宮城鉄道では、これらの基地や工場へ兵隊や工員を輸送するため新たに車輛を増備する必要に迫られたが、時節柄車輛を新造することはままならず、苦肉の策として昭和19年(1944年)10月、省線の長町区に在籍していた木造客車ホハ14000形4両を借入し、ジャンパ引き通し線取り付け、台車の標準軌化など最小限の改造を施し、原番号のまま電車の付随車として使用することにした。

  950形のもととなったホハ14000形は明治末期から大正初期にかけて製造された17m級の中型木造ボギー客車で、窓配置はD2132233Dと木造客車らしく変則的。後に大正中期から後期にかけて大量生産された標準型客車ナハ22000形に比べると同じ17m級ながら車高も低く、車幅も一周り小さい設計となっていた。

 借り入れ当初はほぼ原型のまま利用していたが、車端の二ドアだけでは乗客をさばくことが難しかったため、すぐに車体中央にドアを増設し三扉化改造されている。

 更に翌昭和20年(1945年)2月には木造省電の付随車サハ19形を1両借入している。こちらは前述のホハ14000形と異なり、正真正銘の電車付随車で大正6年の日本車輌製。クハ6410形→サハ6410形→サハ19形と改番を繰り返した古強者であった。

 これらの旧鉄道省からの借入木造車付随車が宮城鉄道に正式に移籍したのは昭和21年のこと。この時旧ホハ14000形はサハ950形951〜954、旧サハ19形はサハ950形955と付番された。これらの木造付随車群は昭和20年代後半まで使用されていたが、当時すでに車齢30年を超えた老朽車輛だったため、昭和26〜27年に名義上クハ1150形に鋼体化され姿を消した。
 
 
 全国に数少ない古典車輛ファンの皆様、お待たせ致しました。いよいよ木造客車や客車モドキの木造付随車の登場であります。戦前の東武鉄道なんかで見られたという電車と木造客車改造サハの併結を再現したくて設定した架空車輛なのですが、あながち絵空事でもなく、実際仙石線では戦中戦後の車輛不足時に電気機関車が木造客車を引っ張るという列車も走っていたそうです。そんな訳で、宮城鉄道に付随車代用の客車が導入されるというのも、それほど不自然な流れではないかと思っております。

 木造客車といえばメジャーなのはナハ22000形なのですが、車幅が地方私鉄の車輛限界に抵触しそうなので、宮城鉄道ではナハ22000形より一時代前のホハ14000形を導入したことにしています。ホハ14000はネット上で適当な資料がなくてかなりアバウトに雰囲気重視描きましたので、多分詳細は異なっていると思いますがご勘弁願います。
■2−2 モハ810形(811〜814)1946年登場

モハ810形
解説編 作者のつぶやき

 810形は宮城電気軌道800形の増備車で宮城電気軌道時代最後の発注車輛。発注は宮城電気軌道時代の昭和18年だが戦争の影響で納入が遅れたため、入線は宮城鉄道成立後の昭和21年(1946年)となり結果的に宮城鉄道初にして戦後初の新車となっている。車体は宮城電軌800形とほぼ同一の窓の大きな二扉車だがドア幅が800形の900mmから1100mmに200mm拡大され、その結果全長も16910mmと800形に比べて560mm長くなった。このため800形とは形式が分かれている。設計時は電動車を予定していたが資材不足のおり、全車未電装で登場した。ただパンタグラフの台座を有するなど将来容易に電装できる構造となっていた。

 正式に電動車となったのは昭和25年(1950年)の1500V昇圧時のこと。この時、電装品は後述の1000形と同じものを取り付けたため、主制御器は三菱製の自動加速式ABF、主電動機はMB146(出力93.3KW×4)となり、外観は800形と同一だが性能的には1000形と同一となった。

 
 名車800形の増備車810形の設定は史実どおりとしました。ただ、電動車化の経緯が異なるため、史実とは電装品が全く違ったものになっています。

■2−3 モハ1000形(1001〜1012)1948年登場

モハ1000形
解説編 作者のつぶやき

 終戦直後、まだ車輌メーカーの生産能力が十分ではなく資材も思うにまかせない事情にあったなかで私鉄各社の新造車に対して規格を定めそれに従って効率よく車輌の新製を行うことになった。
運輸省規格形と言われている一連の車輌群がそれで、宮城鉄道の1000形はこのなかで車体長17m、車体幅2.7mという規格寸法のA`形に相当する車輛である。同時期に作られた定鉄や長電、富山地鉄に入った車両とほぼ同じサイズで(但し宮城鉄道に入った車両は車輛限界の関係で若干屋根が浅い)これらの車輛とは兄弟車と言うことができる。

 車輌製作は宮城電気軌道800形以来の付き合いである日本車輌が担当。昭和23年から26年にかけて両運転台付きの電動車モハ1000形が12両が新製されたが、時代的に車輌の新製には運輸省の監視が厳しかったため、12両中4両については名義上は国鉄の木造客車の鋼体化車ということになっている。電装品は主制御器は三菱製のABF、台車はD−18、主電動機も三菱製のMB146(93.3kw×4)といずれも規格形の指定品を用いていた。登場時の宮城線の架線電圧は600Vだったが、この時既に1500V昇圧が決定していたため、電装品は複電圧対応で設計されていた。

 登場時は資材不足に悩まされた背景もあり、戦前の全盛期に作られた800形に比べると窓は小さくなり、窓桟も多く、スマートな車輌とは言い難いが
車体幅は2740mmに拡大、車体長も17m級となり、同時期に入線した戦災国電復旧車と並んで、終戦直後の混乱期の輸送力増強に大きく貢献した。

 
 一口に運輸省規格形電車といっても車体長、窓配置にはさまざまなバリエーションがあります。この中から、どのタイプを選ぶか、ですが、路線条件や規模を考えると、A`形が適当ではないかと思います。A`形は定山渓800形、富山地鉄14750形、長電1000形に代表されるように、地方私鉄に数多く入っていますし、これらの鉄道は路線規模が宮城鉄道と似通っていますからね。

 電装品は在来車との互換製を考えるならHLタイプを付けるべきなのでしょうが、初の本格的大型車ということで、ここはぐっとおごってALタイプの電車を入れたいところです。AL形制御器も省形のCS-5、日立系(MMC)・東洋系(ES)など各種ありますが、800形車輛で三菱の電装品を使ったことを考えると三菱系(ABF)が適当と思われますがいかがでしょうか?

■2−4 クハ1100形(1101〜1108)1948年登場

●鉄道省クハ65073→宮城鉄道クハ1101(1948)
●鉄道省クハ65036→宮城鉄道クハ1107(1950)


●鉄道省モハ50030→宮城鉄道クハ1102(1948)


●鉄道省モハ31023→宮城鉄道クハ1103(1948)


●鉄道省モハ31030→宮城鉄道クハ1104(1948)
●鉄道省モハ31012→宮城鉄道クハ1108(1950)


●鉄道省モハ30069→宮城鉄道クハ1105(1949)


●鉄道省モハ30084→宮城鉄道クハ1106(1949)
解説編 作者のつぶやき

 1100形は昭和23年〜25年にかけて宮城鉄道に入線、主に1000形とペアを組んだ制御車だが、1000形とは生まれも育ちも異なっている。1100形の前身は国鉄からの譲渡された17m級の旧形国電車、といっても物資不足の当時まともな車輌があるはずもなく、やってきたのは
空襲で被災して焼け落ちた車輌、いわゆる「焼電」で、自社工場で焼けた屋根を新しく作り直し、ボロボロになった外板を叩き直し、車体を唐竹割りにして車体幅を200mm詰めた手作り電車である。この種の戦災復旧車は西武、東急、京成、東武、相鉄など、特に戦災の激しかった関東私鉄に多く入線しているようだ。

 外観は種車となった形式が、ダブルルーフの30系・丸屋根の31系・木造車の鋼体化改造車50系とバラバラだったため、その外観は一両一両が違うと言っても良いほどで、趣味的にはかなり面白い形式であった。

 これらの戦災復旧車は、昭和23年に4両(クハ1101〜1104)、翌24年に2両(クハ1105〜1106)、更に昭和25年2両(クハ1107〜1108)の計8両が完成。1100形は外板はベコベコ、車内には裸電球がぶら下がり、屋根は鉄骨むき出しのみすぼらしいバラック電車ではあったが、
車輌不足のおり、大柄な国鉄規格の車体を生かして大車輪の活躍を見せ、昭和30年代後半に車体更新を受けるまで、戦争の影を引きづった車体のまま走り続けた。


 戦災復旧車、しかも唐竹割りで車体幅を詰めている、慧眼な読者諸氏はもうお分かりでしょう。そう、モデルは京成の戦災復旧車クハ2000形です。

 しかし、鋭い方なら、ここでおや?と思うはず。史実では社形が追放されたあとの仙石線は17m級旧形国電が幅をきかせています。なんでも宮電は将来を見越して開業時から広めの車輛限界を採用していたため、大柄な省形の電車でも支障なく運用できたとか。で、あればわざわざ唐竹割りなんていう手の込んだことをしなくても、17m級旧国はそのまま入線できたのではないか?

 その疑問、ごもっともです。そこで、裏設定を公開しましょう。ここで妄想している宮電は、史実の宮電とは異なり軌道線を出自としています。そのため、開業時、そこまで大型の車輛を走らせる計画はなく車輛限界は小さいままでした。昭和13年に全線専用軌道化が達成され、それにあわせて車輛限界も拡大されましたが、それでも2744mmがせいぜい。17m級旧形国電モハ30・31・50系列は車幅2805mmだったと思いますので(手すりなんかを含めたら2900mm近くになったはず)当然そのままでは入線できませんでした。

■2−5 1500V昇圧と小型車の整理(在来車のその後)
 昭和20年代は1500V昇圧、大形車の大量導入、仙台線の改軌・電化と宮城線を取り巻く環境に比較的大きな変化があった時期である。この時期、軌道以来の在来車である100形〜900形も、あるものは電装解除され制御車に、あるものは他社へ譲渡、あるものは仙台線へ転属と複雑な動きをしている。以下の項では形式毎にその後の経緯を簡単に追っていきたい。

●モハ100形(101〜104)
大戦中の酷使がたたり、101・103の2両は電動機故障のためクハ代用となっていたが、昭和25年の昇圧時に全車電装解除された。しかし自重が重いことが嫌われ制御車化後は余り使われなかった。昭和29年に800形の発生品を利用して再び電装。以降、宮城線高城町以北の区間運用に使用されている。

●モハ200形(201〜204)・クハ300形(301〜303)
 昭和13年に簡易半鋼化改造が施されて若返った200・300形だが、もとが木造車で車体も宮城鉄道ではもっとも小型のため、淘汰の対象となった。昭和23年に運輸省規格型1000形が入線すると、その見返りとして昭和23年にクハ300形が3両全車とも高松琴平電鉄へ、昭和24年にモハ200形203・204が弘南鉄道に供出、残った2両は昭和25年の昇圧時に電装解除され、HL車グループの制御車として使用されたが昭和29年廃車。廃車後日立電鉄に譲渡された。

●クハ400形(401・402)・モハ500形(501・502)・モハ600形(601・602)・クハニ700形(701・702)
昭和25年の昇圧時に昇圧改造されることなく休車。その後400形・500形計4両は台車を狭軌化のうえ仙台線に転属しそれぞれクハ2461・2462・モハ2411・2412となった。600形・700形は電装解除されクハとなり800形の制御車として使われたが600形は昭和30年に800形の発生品を利用して再び電装。100形とともに高城町以北の区間運用に使用されている。700形はマスコンをABF対応のものに交換し、ABF車グループの制御車の仲間入りをしている。

●モハ800形(801〜807)
昭和25年の昇圧時に全車昇圧改造を受ける。その後昭和28〜30年にかけて主制御器をABF化、主電動機をMB146に換装。810形、1000形と同一性能となった。発生した旧電装品は100・600形の再電装に用いられた。

●モハ900形(901)
昭和25年の昇圧時に昇圧改造されることなく休車。同年台車を狭軌化のうえ仙台線に転属。モハ1411となった。

●付録
1(宮城電気軌道車輛緒元表)昭和25年8月現在(製作中)

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