宮城線車輛史3
●3 宮城鉄道時代の車輛2(1500V昇圧後)

 昭和20年代後半から30年代前半にかけては日本の電車史上ではかなり重要なターニングポイントの一つに数えられるかもしれない。経済水準はようやく戦前の全盛期を越え、アメリカからの新技術も導入された結果、電車の技術は日進月歩。在来車とは一線を画す新形台車、カルダン駆動、全金属軽量車体と後の電車の礎となる技術が華開いた時期であった。営団300形、東急5000系、小田急2200形など大手私鉄各社は国鉄に先駆けて、競ってこれらの新技術を積極的に採用した意欲作を世に送り出したのである。

 戦前より進取の気風に富むことでは定評のあった地方私鉄の雄、宮城鉄道マインドはここでもいかんなく発揮された。昭和28年には張り上げ屋根、ノーシルノーヘッダー近代的な車体を持ち、新形台車を採用した
1200形を新造、さらにその翌年には、この1200形をベースにWNカルダン駆動と多段式制御器を採用した1210形を早くも登場させている。昭和32年、全金属軽量車体と電磁直通制動を採用し、豪華な車内設備で登場時は東北一のデラックス車と謳われた1300系の登場に至り、ここまでの試行錯誤が結実する。その後、宮城電気鉄道の時代になって質より量に主眼を置いた経済車が主流を占めるようになるので、残念ながらこの時期に確立された「時代の先端を走る宮鉄」精神が後に生かされたとは言い難いのが残念なところではある。

 これらの地方私鉄としては群を抜いてハイレベルな車輛を新製するのと同時に、他社からの中古車を購入して安価に車輛増備を図るというのも宮城鉄道から後の宮城電気鉄道に受け継がれる伝統だろう。この時代にもカルダン駆動の自社発注高性能車を導入する一方で、大手私鉄から廃棄車体を購入したり(
1150形)、国鉄から廃車された旧買収国電(1160形)を購入したりしている。在京、在阪の大手私鉄に較べれば決して資金的には豊かではない、限られた予算の中で車輛をやりくりしなければならない中での苦渋の選択ではあるのだろうが、このことがのちに宮城電気鉄道をして東の電車博物館として多くのファンを惹きつけてやまない理由となるのだから皮肉なことである。

■3−1 クハ1150形(1151〜1154)1951〜52年登場


クハ1150形
解説編 作者のつぶやき

 クハ1150形は名義上は木造付随車950形を昭和26年〜27年にかけて自社工場で鋼体化した車輛ということになっているが、実際は京王帝都電鉄の戦災復旧車クハ1570形を昭和26年にクハ1250形に更新する際に廃棄された旧車体に、上記木造付随車からの発生品と思われるTR11形台車を履かせ、手持ちのABF対応のマスコンを取り付けたものである。車歴を引き継いでいないため車体の旧番号は定かではないが、登場時期から考えてクハ1571・73〜75・77・79・83の8両のうちの4両と推定される。

 京王帝都クハ1570形の前歴は、井の頭線の前身、帝都電鉄の100・200・250形に遡ることができる。これらの車輛は昭和8〜16年にかけて製造された高さ1000mmと当時としては破格の大窓を持ち、前面のひさし付きの窓が特徴の軽快な17m級三扉車で、小田急1600形に代表される関東型といわれた、窓の大きな17m級三扉車群の基礎を築いた車輛であった。登場時は関東一の電車の誉れ高かった同車だが、昭和20年5月、戦災により永福町の車庫が焼け、過半の車輛が被災してしまう。1570形はこれらの戦災車の外板を叩き直し、屋根を作り直して応急復旧した車輛である。

 1100形と同様、1150形も戦災復旧車のため車体の状態は悪く昭和30年代後半には車体更新されて、旧帝都の優雅な車体は姿を消した。

 運輸省規格型、戦災復旧車ときて、もう一種類くらい車体のバリエーションが欲しいなと思ったわけです。条件は昭和20年代後半に廃車となった全長17m程度の鋼製三扉車。しかし全国的にモノが不足していたこの時期にそう適当な出物があろうはずもありません。

 いろいろ資料をあたった結果、昭和26から27年にかけて京王井の頭線の戦災復旧車の車体が車体載せ換えのため15両分廃棄されていることが分かりました。うち3両分の台枠は相鉄にわたっていますがあと12両分はまるまる残っています。これを利用しない手はないだろうと。

 もとが戦災復旧車で、しかも復旧後4〜5年で旧車体を廃棄しているとなれば、車体の状態が非常に悪かったのではないかと勘ぐりたくなりますが、同じ井の頭線の戦災車の車体を持ち早々に東急に譲渡された車輛は戦災復旧車体のまま昭和30年代半ばまで走っていますので、(後に3500形や3360形に更新)比較的状態の良い車輛を選べば宮城鉄道でも30年代いっぱいく
らいは何とか持つのではないかと思いました。

■3−2 モハ1200形(1201〜1204)1953年登場

モハ1200形
解説編 作者のつぶやき

 書類上は昭和28年、日本鉄道自動車から改称したばかりの東洋工機製の新造車ということになっているが、実際には台枠などの主要構造部分に旧帝都電鉄の戦災復旧車クハ1570形のものを流用し、新製車体を載せた準新車である。このため車体形状は異なれども、そのルーツは前述の1150形と同じであり、車体長や特徴的な半流線型の妻面の曲線などに共通点を見いだせる。
 
1200形は宮城線の電動車としては初の三扉車体を採用、窓配置は1100形・1150形にあわせてd1D4D4D1dのいわゆる関東スタイルとなり、側窓には当時流行の上段Hゴム固定のバス窓が採用された。車体は半鋼製ながら宮城鉄道としては初のノーシル・ノーヘッダー、張り上げ屋根のスマートなスタイルで、交流MGを採用した結果室内灯には蛍光灯が用いられたため室内は在来車に較べて大変明るくなり、乗客に好評を博した。
 
 車体関係は後の宮電標準車につながる数々の新機軸を打ち出した画期的な車輛ではあったが、足まわり関係はゲルリッツ式の新形台車を採用したこと以外は、単位スイッチ式のABF制御・釣掛駆動・AM制動と在来車に較べて何ら目新しい点はなく、後に登場する新性能車と在来旧型車を繋ぐ過渡的な役割を担ったといえよう。

 登場後は800・810・1000形などの旧型車群と運用上区別されることはなく混結して使用された。その後昭和44年に窓枠のアルミサッシ化、昭和48年に室内の全金化など数々の改造を受けたが、車齢が若いせいもあって他の旧形車のように車体を載せ換えることなく、最後までバス窓の原型を留めたまま走り続けた。


 1200形のモデルは二つあります。一つは車歴上のモデル、もう一つは外観上のモデルです。
 車歴上のモデルは相鉄の旧型車モハ2015・2016・クハ2508の3両です。これら3両は昭和30年の東急車輌製となっていますが、実は帝都電鉄戦災復旧車の台枠流用車とのことです。宮鉄1200形の登場の経緯も同一ということにしています。古台枠をどこかから探してきて新しい車体を作り、パッと見新製車に仕立て上げるというのは当時よく見られた手法ではあります。そんな、なんちゃって新製車を数多く手がけたのが日本鉄道自動車→東洋工機ですので、1200形は東洋工機製ということにしてあります。

 外観上のモデルは京成クハ2100形。京成の新青電スタイルの元祖となった車輛ですね。伝統的な関東型窓配置にノーシルノーヘッダー、張り上げ屋根、埋め込み式前照灯といった近代的なテイストを加味した、スマートな車輛です。とても昭和27年製には見えません。

 バス窓としたのは、当時の流行を追ったというのが一つ、それから栃尾電鉄の東洋工機製の電車がバス窓なので東洋工機はバス窓が好きなのかな?と思ったのが一つ。まあ、外見にアクセントを加えたかっただけで深い意味はありません。
■3−3 モハ1210形(1211・1212)1954年登場
 
解説編 作者のつぶやき
 
 昭和29年日本車輛製の宮城鉄道初の新性能車。車体は1200形とほぼ同じ、半鋼製、三扉ノーシル・ノーヘッダーの近代的な車体だが、旧車の台枠流用車ではなく完全な新製車となった。このため1200形に比べると車体長が400mm長くなり宮城鉄道初の18m車体になるなど1200形とは若干の寸法差が見られる。

 1210形を一番特徴づけるのはそのなんと言ってもその足まわり。当時、従来の釣掛式に変わる新しい駆動方式であるカルダン駆動をいち早く実用化した三菱電機の協力を得て、宮城鉄道としては初となる出力75kwの小型高速回転の新形電動機(形式名MB3005)を用いたWNカルダン駆動を採用。制御器も1200形の三菱製ABFをベースに単位スイッチ式のままで多段化した1C4M方式のABFM104-15E制御器を搭載し、在来車にはないスムースな加減速を実現。宮城鉄道初の高性能車の名に恥じない車輛となったが、制動装置については在来車との混結を考慮し、従来通りの自動ブレーキのままとなっている。

 1210形は結局2両しか製作されなかったことでも分かるように、試作的な意味合いの強い車輛で、在来車と混運用されたため本来の性能は発揮されることは少なかったが、後に登場する急行専用車1300系・3000系、汎用通勤車300系などの高性能車の礎になったという意味では宮電車輛史上に重要な役割を占めた系列であると言えるだろう。


 地方私鉄なのに、カルダン駆動の採用が昭和29年というのは少々早いかもしれないと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、地方私鉄でいえば奈良電(近鉄京都線の全身)は昭和29年、富山地鉄は昭和30年、富士山麓鉄道(現富士急行)は昭和31年がカルダン駆動の初採用年です。宮城鉄道がこのクラスの私鉄に遅れをとってほしくはありませんね。これだけではただの願望になってしまうので、宮城鉄道がカルダン駆動の採用に早期に踏み切った裏付けを以下に書いてみますね。

 史実での800形の機器の採用実績を考えれば宮城鉄道が伝統的に電気品に三菱製を採用していくことは間違いないと思われます。その三菱ですが、営団300形に代表されるように早いうちからカルダン駆動を実用化したメーカーの一つであり宮城鉄道にも積極的に売り込みをかけたに違いありません。で、「進取の気風に富む東北の雄」と言われる社風であれば、必ずや三菱の売り込みに応えただろうと思うわけです。

 カルダン駆動にも直角、中空軸、WNと三種ありますが、三菱系であれば、WN駆動と相場が決まっています。よって、1210形以降、宮城鉄道ではWN駆動を標準採用していったものと考えます。

■3−4 クハ1160形(1161〜1163)1956〜57年登場

●青梅電気鉄道モハ505(1940)→国鉄クハ6111→宮城鉄道クハ1161(1956)


●青梅電気鉄道モハ507(1940)→国鉄クハ6112→宮城鉄道クハ1162(1957)


●青梅電気鉄道サハ702(1941)→クハ702(1944)→国鉄クハ6120→宮城鉄道クハ1163(1957)
解説編 作者のつぶやき
 
 1160形は輸送力増強用に昭和31〜32年にかけて入線した全長18.8mの大型車である。宮城鉄道宮城線については言えば、すでに自社発注の高性能車も投入されていた時期ではあったが、より安価に、より多くの車輛を増備するため、中古車とはいえ車齢も比較的若く、大型車体を持つこの車輛に白羽の矢が立った。地方私鉄にしては比較的高性能の自社発注車を製作するのと並行して、私鉄各社から中古車を購入するという宮電独自の車輛増備スタイルは、思えばこの頃から確立されてきたのかもしれない。

 この車輛をもとは青梅鉄道(現JR青梅線)の買収国電で、当時の関東私鉄には珍しい大型車体と、窓配置d1D5D5D1dという、通常の関東型車輛に較べドア間の窓が一枚多いのが特徴の車輛であった。国鉄入線後転属を繰り返したのち、末期には山陽地区の宇部線・福塩線で使用されていものを廃車後宮城線用に購入したものである。宮鉄入りしたあとは同一形式にまとめられてはいるが、国鉄時代に受けた更新工事の結果、トラス棒や運転台撤去側に乗務員室扉が残っていたクハ1161・ベンチレーターを国鉄形のグローブ形に取り替えられていたクハ1162・1163各車細部が異なっていた。車体裾部も種車の関係で1161・1162が段差があるのに対して1163は一直線になっているなど、細かく調べていくと興味は尽きない。宮鉄入りに際しては、台車を標準軌に改軌、主幹制御器をABF対応のものに変更されている。入線後はABF車の制御車として使用されたため、800形などの小型車と組むと車体長がアンバランスで地方私鉄ならではの面白味があった。
 
 ABF車が全金属車体に車体更新されていく中で、1160形は窓枠のアルミサッシ化、前面貫通化、戸袋窓をHゴム支持化、ベンチレーターをグローブ式に統一するなど、各種の近代化工事を受けたが、車体更新の対象からは外れたため、仙台高速鉄道が開通する昭和51年までに全車廃車となり弘南鉄道に譲渡された。


 青梅鉄道の買収車も買収国電の中では不遇な部類に属すると思います。中でもモハ505〜508、クハ701〜703の7両は青梅鉄道では最も新しい昭和15〜6年製にもかかわらず、再就職できたのは相鉄に行った2両と富士山麓に行った1両の計3両のみ。残りの車輛は国鉄買収線区をたらい回しにされたあげく、昭和30年代前半には廃車になっていますから、車齢20年に満たない命だったわけです。買収国電中では阪和車に次ぐという全長18.8mという大型車体が逆に仇になってしまったと思われます。

 そんな不遇な車輛ですが、宮城鉄道であれば、大型車体を持て余すことなく使いこなせたのではないでしょうか?山陽地区から東北に再就職した例が少ないのが多少気にはなるのですが・・・。
■3−5 モハ1300系(1301〜1308・1351〜1354)1957〜58年登場

解説編 作者のつぶやき

 戦後の混乱期もようやく過去のことになりつつあった昭和29年、秋保電気鉄道を買収した宮城電気鉄道は、松島・秋保温泉といった沿線に抱える観光地の開発にようやく本腰を入れて取り組むこととなった。経済面では松島や秋保温泉に新しくホテル・旅館を建設したり松島観光汽船を傘下に収めるといった経営の多角化が見られる。本業である電鉄業においては、宮城線について言えば昭和27年より戦前に行われていた急行運転を復活、800形、1000形の一部を扉間クロスシートに改造して急行に投入するなど、すでに若干の体質改善が進められていたが、秋保電鉄との合併を期に日本三景の一つに数えられ全国でも有数の観光地である松島に向かうに相応しい、新型の急行用車輛の開発が開始されることとなった。
 
 数々の試行錯誤の結果、1300系と付番された新型車が登場したのは昭和32年のことである。1300系はMc-T-Mcの三両固定編成計4本、12両が登場。宮城鉄道としては初となる全金属製の軽量車体を採用、前面は当時流行していた湘南形の二枚窓、車体塗色は従来の茶色一色から、黄色とクリームのツートンカラーの戦前色に回帰するなど、従来の宮城鉄道のイメージを一新した。室内はシートピッチ950mmの転換クロスシート装備と国鉄の二等車並の設備となり、戦前に一時期行われていたガイドガールによる飲み物サービスも復活、宮鉄仙台〜宮鉄石巻間の長距離運用に備えて汚物処理装置付きのトイレを装備するなど、完成当初は東北一のデラックス車と謳われた。その名のとおり当時の大手私鉄の特急車と較べてもなんら遜色ないどころか、むしろそれらを 凌駕する一面もあったといえよう。

 電装品については昭和29年に登場した1210系で試用されたWNカルダン駆動、単位スイッチ式多段制御器などの新技術が随所に生かされているが、制御器については一個の制御器で8個のモーターを制御する1C8M方式とし(主制御器形式名ABFM108-15EDH)、空気圧縮機、電動発電機なども大容量のものを一機Tc車に装架するなど、機器の分散、集約化が図られている。さらに固定編成で在来車との混結を考えないため、応答性のよい発電制動付きの電磁直通ブレーキ(HSC-D)の採用に踏み切った。

 このように華々しく登場した1300系ではあるが、その車生が順風満帆だったとは言い難い。1300系登場の直後より始まる日本の高度経済成長期、輸送力増強のお題目とともに質より量の時代が到来する中で、三両編成しか組めず他形式とも併結できない1300系は次第に持て余し気味となった。このため前面貫通化、三扉ロングシート化、一部車輛については付随車化され他形式に編入されるなど、時代の流れに翻弄され、登場時の華やかさとは裏腹に日陰者の人生を歩むことになる。付随車化されて他形式に組み込まれてはいるが、この華麗なる一族の末裔のわずかな生き残りは世紀の壁を越えて長生きし、今なお仙台線でその姿を見ることができるのがせめてもの救いかもしれない。


 私は本来、田舎臭い古びた電車が好きな人間であり、私鉄各社の特急車というのは趣味の範疇外なのではありますが、やっぱり架空鉄道をやっているからには看板列車の一つや二つは欲しいし、看板列車を設定するからには、それらがどんな列車か思いを巡らせるのは素直に楽しい作業であったりします。

 てなわけで1300系急行専用車です。湘南形電車大流行の時期柄、この急行車も湘南形としてみました。当時は猫も杓子も湘南形という時代、本来前面貫通スタイルが主流の鉄道も無理矢理湘南形電車を作ってましたからねえ。外観イメージは、ほぼ同時期登場、路線も同規模?で標準軌採用の西鉄の1000系とか阪神3011形をヒントにしています。車内設備は、中私鉄にしては多少オーバースペック気味かもしれませんが、日本三景という日本有数の観光地へ向かう観光客を運ぶ急行なわけですから、ある意味社運がかかっているわけです。多少無理をしてでもこのくらいの電車を作ってもらわないと困ります。なにしろ宮城鉄道の看板であり、広告塔なのです。

 そうそう、言い忘れていました。宮城鉄道においては特急というのは存在しません。最優等車はあくまでも急行。忘れがちですが特急というのは、あくまで特別急行の省略形。つまり急行あっての特急なわけで、本来はごくごく一部の車輛にしか付けられない列車種別のはずです(地元北海道でいえば本来特急を名乗れるのはスーパー北斗やスーパーおおぞらぐらいなものでしょ)。宮城鉄道クラスの私鉄には急行・準急(通勤準急)・普通、この三種別で充分と思っております。つまらない作者のこだわりですけどね・・・。

●付録
1(宮城電気軌道車輛緒元表)昭和33年10月現在(製作中)

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